≪何言うとんねん≫ 所収
≪ 知の限界と可能性 ≫
――― 頭の中がカラッポ。
頭のてっぺんからつま先までカラッポである。
いわゆる、
頭脳的な白紙状態(一休さん)の持続(正念相続)である。
<意識するもの> も <意識されるもの> も無い
「打成一片の自己」であり、
日常的な「市中の瞑想」(那伽大定)である。
このとき、ひとは「素地の白地」であり、
ありのままの「自己の本分」(主人公)である。
いわゆる、自己相対的な動静(有為と無為)を超えた
「動中の静」(活中の死)であり、
「静中の動」(死中の活)である。
へんな話だが、
ここでは「馬鹿」が、もっとも「利口」と言うわけである。
「知らぬがホトケ」と言うのも、この類いである。
あるがまま、なるがままに、「無知の知」(絶対知)を体して、
絶対不可逆的 <当為> に向うのである。
そうせずには居られぬ何事かとして、
止むに止まざる仕儀に出自するのである。
これが ≪不求仏法≫ (真を求めず妄を除かず)
の障りなき端的である。 (仏向上の事)
場の叡智(存在の叡智)に、善く自覚し自信し自若するがゆえに、
もはや、 <求めるもの> も <求められるもの> も無い
「無生の法」に自在するのである。
≪ 用いんと要さば即ち用いよ、更に遅疑すること莫れ ≫ と。
≪ 知の限界と可能性 ≫
――― 頭の中がカラッポ。
頭のてっぺんからつま先までカラッポである。
いわゆる、
頭脳的な白紙状態(一休さん)の持続(正念相続)である。
<意識するもの> も <意識されるもの> も無い
「打成一片の自己」であり、
日常的な「市中の瞑想」(那伽大定)である。
このとき、ひとは「素地の白地」であり、
ありのままの「自己の本分」(主人公)である。
いわゆる、自己相対的な動静(有為と無為)を超えた
「動中の静」(活中の死)であり、
「静中の動」(死中の活)である。
へんな話だが、
ここでは「馬鹿」が、もっとも「利口」と言うわけである。
「知らぬがホトケ」と言うのも、この類いである。
あるがまま、なるがままに、「無知の知」(絶対知)を体して、
絶対不可逆的 <当為> に向うのである。
そうせずには居られぬ何事かとして、
止むに止まざる仕儀に出自するのである。
これが ≪不求仏法≫ (真を求めず妄を除かず)
の障りなき端的である。 (仏向上の事)
場の叡智(存在の叡智)に、善く自覚し自信し自若するがゆえに、
もはや、 <求めるもの> も <求められるもの> も無い
「無生の法」に自在するのである。
≪ 用いんと要さば即ち用いよ、更に遅疑すること莫れ ≫ と。