≪何言うとんねん≫ 所収
   


   何度も同じことを語っているような気がする。

   ただ、レトリックやアプローチの仕方(文脈)だけを換えて

   同一的事態の現象を様々に記述(言表/表記)しているに

   過ぎないのかも知れない。


   しかし、当の現象は、かすかな痕跡のみを残して

   もはや <いまここ> には無い。

   その一番端的な例が、<人の死> である。



   うまく語れるかどうか、何とも心もとないが、

   とりあえず、今一度語ってみよう。

   
   言葉には、自ずから限界のあることを

   了解し合ったものとして・・・


   
   
   <意識するもの> の有るところに <意識されるもの> が有る。

   すなわち、

   <意識されるもの> の有るところに <意識するもの> が有る。


   
   したがって、

   <意識するもの> の無いところには <意識されるもの> も無い。

   そして、

   真に <意識するもの> の無いところには、

   <意識するもの> も無ければ、

   <意識されるもの> も又無いのである。   (無生死涅槃)


 
   そして・・・

   <意識するもの> を 「生」 (或は、生成) に置き換え、

   <意識されるもの> を 「死」 (或は、消滅) に置き換えて、

   今一度、上の文章を読み下して欲しいのである。


   
   同様に、<意識するもの> と <意識されるもの> のところに

   <求めるもの> と <求められるもの>

   <愛するもの> と <愛されるもの>

   
   あるいは、

   <悟るもの> と <悟られるもの> を入れ替えても

   一向に同じである。