≪何言うてんねん≫ 所収
  


   正直、手を焼いている。 

   
   「人のふるまい」 は記述し得ない

   あるいは、

   「場のふるまい」 は規定 (或は「想定」) できない (予測不能) と。


   
   ≪ それは、無規定的であり、無限定的である。≫



   たとえば、私が私のふるまい (行為/言動) を記述し規定できるのは、

   少なくとも、場のふるまいの 「事後」 に於いてであり、

   決して、「場のふるまい」 に先行して記述 (規定) できない、

   という理由に依っている。


   ( ・・・簡単に言えば、先行する 「場のふるまい」 に依らなければ、

    如何なる 「場のふるまい」 も記述することも規定 (定立化) することも

    できないと言うこと。)


   たとえば、わたしの記述内容や記述過程がどのようなプロセスを辿ろうとも、

   「記述すること」 (記述行為) 自体が、すでに 「場のふるまい」 であり、

   なによりも、場のふるまいを記述しようと 「発意」 した瞬間に、

   「場の発意」 と言うふるまいが 「ふるまわれている」 から・・・。


   さらに言えば、

   仮に私が 「場のふるまい」 を記述 (規定/限定) したとしても

   たちまち、わたしの 「天邪鬼」 がムラムラと 「ムラッ気」 を起して

   ネガティブ・チャージとも言うべき 「C反転」 を惹起させるから。


   ( それとも、いんぎん無礼に 「合わせてみせる」 ・・・かな )


   つまるところ、

   そのような規則や規定 (法則) に 「合わせてみせる」 のも、

   「はずしてみせる」 (へそをまげる?) のも、

   オイラ次第 (自律自戒性/自己制御) ってことのようだ。


   ――― これって、

   「観自在」(自由自在/自己実現) ってことじゃないの・・・?