≪愛のフロント喉 所収

   

   『柏樹子考』

   ――― 舌足らずな文章で申し訳ありません

    
   ≪ 仏法八万偈、この人、善く 「能」 を識る。≫

    
   一撃に所知を忘ず、更に修持を仮らず。

   動容に古路を揚ぐ、悄然の機に堕せず。

   処々蹤跡無し、声色は威儀を外にす。

   諸方達道の者、咸(みな)言わん上々の機と。

   
                 (「香厳撃竹」の偈 )



   「父母未生已然の本来の面目」 (即ち、「声前の一句」) とは、

   何とも 「曰く言い難いもの」 なのでしょうけれど、

   ここでは、はからずも香厳智閑禅師が、

   その問いに、自ら答えています。



   さて、それはそうとして ・ ・ ・

   この覿面する 『能』 の世界 (生成のダイナミズム) を知る人は、

   善く、「古路」 (古帆/尾巴子) を知る人であり、

   何よりも、未だ <言葉にあらず、言葉を離れず>  (不合不離)

   を知る人である。     (途中受用/有余涅槃)



   因って、自ら善く 『狂言』 (言動/動容) なるを知るのであり、

   ≪ 動容に古路を挙ぐ ≫ を会得するのである。

   さらに、一々、修持 (修証) を借らずとも。     (頓悟法門)



   此処に、善く 「能」 (要諦/実相) 成り、「狂言」 (要関/機関) なる人は、

   随時随処に 「主」 と作り、赤肉団上に 「一無位の真人」 を自知し自認し給う。

   是れ、「観自在菩薩」 ならんや。



   ちなみに、此処では 「親切が仇(あだ)」 となり、

   返って、「不親切が親切となる」 となるのです。


   ――― あらかじめ尻を掻いて痒がりを待つこと莫れ、と。