≪愛のフロント喉 所収

   
   
   『仏陀誕生』

   
   < 兀石 (ごっせき) 点頭す > 

   ――― 是れ又、何者ぞ。



   わたしは、このような 「大死一番、絶後に蘇る」 (身心脱落・脱落身心)

   の 「時節因縁」 (仏縁/縁起) の到来を俟(ま)って、

   「出身の時」 (事態) と呼び、「有仏の処」 としている。

   いわゆる 『奇特事』 と呼ばれるのが是れであるが、

   その代表的な例が、釈尊に於ける 「天上天下唯我独尊」 である。



   この 「全一的主体」 の独露現成(自己限定) とも言える事態を将って、

   『仏陀』 (覚者/自覚者) の誕生(目覚め) を言うのだが、*

   しかし、このような「奇特事」も一時の位(位相性)で、

   やがては、これが 「平常底」 (日常底/生活底) であることに落着する。


    * 正確には、真空の自律的で自発的な対称性の破れ。

     ――― 即ち、真空の相転移。 (絶対否定即絶対肯定/逆も真)



   「奇特事」以後、「悟後の修行」 (八正道分修行/事上練磨) を重ね、

   揚句の果てにたどり着いた先が、趙州の 「庭前の柏樹子」 と見ている。 *


    * 大悟徹底 (山上、更に山在り)



   つまり、趙州の「柏樹子」は、「奇特事」を詠んだものではなく、

   むしろ、このような勇ましい「奇特事」さえも脱却透過して、

   日常する 「平常底」 (生活底) に 「自己の本分」 を見届けたのが、

   「趙州柏樹子」 だとしている。    (趙州の露刃剣)



   元より、「自覚者」(目覚めた者) が、「自覚」(目覚める) することに、

   特別の意味など何処にも有りはしないのだから。



   これを、「廓然無聖」 (無仏の処) と為し、 *

   その「非聖非凡」なる 『聖諦第一義』 (究竟義) に当てゝいる。


    * 父母未生已然の本来の面目



   趙州、因みに僧問う、

   「如何なるか是れ祖師西来意」

   州云く、

   「庭前の柏樹子」

   僧云く、

   「和尚、境を将て人に示すこと莫れ」

   州云く、

   「我、境を将て人に示さず」

   僧云く、

   「如何なるか是れ祖師西来意」

   州云く、

   「庭前の柏樹子」