≪愛のフロント権 所収

   

   ――― またぞろ、後ろ髪を引くようで申し訳ないのだが ・・・
   
   
   お気付きのように、臨済師の言に従えば、

   つまり、 <念念馳求の心を歇得すれば祖佛と別ならず>

   (以後「念々馳求心」、或は「馳求心」と呼ぶ) から言えば、

   此処での、このような論述は、「不成仏」 (愛ならざる者) の典型となり、

   「霊亀尾を曳く」 の具体例となって披瀝される。

   
   ( ・・・ 実の所、ただちに「止める」ほか無い。 )



   <求心歇(や)む処即ち無事> と言われ、

   <一心生ぜざれば万法咎無し> 

   と言明される所(無事底)から言えば、

   此処でのこのような継続(持続)的事態は、

   明らかに 「念々馳求心」 の結果であり、

   「無事ならざる事態」 には違いないのであるから。




   ――― 「 道流、設(たと)い百本の経論を解得するも、

   ≪ 一箇無事底の阿師には如かじ。≫  (括弧、筆者)

   
   儞 解得すれば、即ち他人を軽蔑す。

   勝負の修羅、人我の無明、地獄の業を長ず。

   善星比丘の如きは、十二分教を解すれども、

   生身にして地獄に陥り、大地も容れず。

   如かず、無事にして休歇し去らんには。

   飢え来たれば飯を喫し、睡(ねむり)来たれば眼を合す。

   愚人は我を笑う、智は乃ち焉(これ)を知る。



   ・・・ さらに続けて、

   道流、≪ 文字の中に向って求むること莫れ。≫

   心動ずれば疲労し、冷気を吸うて益無し。

   如かじ、一念縁起無生にして、

   ≪ 三乗権学の菩薩に超出せんには ≫ 」 と。  (括弧、筆者挿入)



                  (『臨済録』示衆一四 引用 )




   これ、仏教の「要諦」であり、仏教義の「根幹」であり、

   何よりも、「一超直入如来地」 である。

   由って、これを「掃蕩門」(抑止門)となし

   「解脱門」(聖道門)とも呼んで、

   その ≪心解脱≫ (渇愛滅/貪瞋痴滅) に換えている。



   ――― 是れ、『慮外の事』 であり、 

   『五里外 (語理外) に龍潭在り』 と。