≪愛のフロント権 所収



   ≪ 不入涅槃 ≫ 

   
   ――― 「正位に証を執るは毒海に堕在す」。


   
   この漢、涅槃を求めず、涅槃にとどまらず。

   披毛戴角して?瞎 (閙処) に入り来る。 *   

   
   ≪ 観音に鬚生ず! ≫


   * これを 「異類中行」 とも言う。



   これ、帰家穏座して鬼窟裡に安住し、鬼家に活計を為すを脱却し、

   言う所の 「無事の会」 を脱体現成するを言う。   <脱落身心>

   
   ――― 道うこと莫れ、 「無事にして好し」 (臨済) と。



   
   四祖演和尚道く、

   「有事を将(もっ)て無事と為すこと莫れ、

   往往(しばしば)事は無事より生ず」 と。


   ?胃(なんじ)若し参得透し去らば、

   他(かれ)の恁麼(いんも)に尋常の人の説話(はなす)が如くと

   一般(おなじ)なるを見ん。  (真仮不二)


   多くは言語に隔碍(へだ)てられ、所以(ゆえ)に会せず。

   唯だ是れ知音(ちいん)にして、

   方(はじ)めて他底(かのもの)を会せん。  (一超直入如来地)


   只だ乾峰の如きは衆に示して云く、

   「一を挙して二を挙するを得ず、

   一著を放過すれば、第二に落在す」 と。


   雲門、衆より出でて云く、

   「昨日一僧有り、天台より来たりて、却って南岳に往き去る」。

   乾峰云く、

   「典座(てんぞ)今日普請すること不得(なか)れ」 と。


   看よ他(か)の両人、放つときは則ち双放 (放行)

   収むるときは則ち双収 (把定)

   
   ?蕃仰下(いぎょうか)に之を境致と謂う。

   風塵草動するにも、悉く端倪(たんげい)を究むればなり。

   亦た之を隔身の句と謂う。

   意通じて語隔つればなり。

   
   這裏(ここ)に到っては、須是(すべか)らく左撥右転して、

   方(はじ)めて是れ作家(さっけ)なるべし。



              (『碧巌録』第二四則「劉鉄磨台山」 参照)



   
   これ、「不入涅槃」(出涅槃)であり、「初転法輪」(入?瞎垂手)であり、

   「愛(慈悲)の発露」であり、「般(はつ)涅槃」 * であり、

   ≪ 観自在菩薩 (愛の人) の独露現成 ≫ である。


    
   * 般涅槃: 完全なる涅槃の謂。