≪愛のフロント窟 所収



  『鬼手佛心』 

   
   ――― すなわち、 「打つ」  (第三句) 


   
   凡夫若知、 即是聖人。    凡夫若し知らば、即ち是れ聖人。

   聖人若會、 即是凡夫。    聖人若し会せば、即ち是れ凡夫。


              
                    (『無門関』九「大通智勝」 参照 )
   



  具体的で実際的(実践的)な禅を、

  学際的に(或は、認識論的に)、記述し言表することが、

  はたして <まっとう> な事なのかどうかは別にして、

  少なくとも、この第二句的な 「認識論的立場」 (信の立場) に降り立たない限り、

  第一句的な 「開悟の立場」 (覚の立場) を自らに了解することも、

  納得することも (つまり、認識し言葉にすることも) 不可能である。



  ましてや、 『臨済の三句』 に示されたように、

  第一句的立場はおろか、第二句、第三句に渡る 「信・行」 的立場を

  明確に弁別(分別/表明)することは不可能で、

  せいぜい、言葉にならない体験にしがみつくか、有耶無耶に帰すか、

  いずれにせよ 「無分別」 な曖昧さ (言語道断底) に逃げ込むくらいが

  関の山と思われる。



  私が、この第二句的な「認識」(妙解) を 「自領分の了悟」 と

  呼んだのはこの為で、必ずしも 「所得」(有所得) の謂ではなく、

  むしろ 「自己了解」(納得/落着/自信) と言う程の意味での

  <会通> (道得) である。    

  
  ――― 「知解」 の分際から 「会通」 の分限へ。  (不妨因果) 



  此処に、ようやくにしてと言うか、始めて第三句的な意味での

  最後決定的な <承当> (証契) ―――

  < 即ち、「打つ」> (行為/言動) ――― が成就する。



  ちなみに、私はこのような事態を 「ふれ合い」 (お互いさま) と呼び、

  その 「助縁」 (因縁生起/済度) としている。