≪愛のフロント窟 所収
――― 大徳、儞且く光影を弄する底の人を識取せよ。
是れ諸仏の本源、一切処是れ道流が帰舎の処なり。
(『臨済録』示衆一 参照)
私があえて、このような卑近な例を持ち出したのは、
「臨済の三句」が単なる認識論的な形而上(つもり)を離れて、
我々の日常的な生活(現象形態)の中に在ると言うことと、
一連する現象形態の中に立ち現れる「反応の影」とも言うべき「自我」が、
依然として「否定」されなければならないのかを、自らに問う為である。
つまり我々人間は、
単なる木石でもなければ犬猫でもないと言う意味で、
この「自己調整」し「自己制御」せんとする 「人」 (妙解の人/愛の人) までも
否定(解脱/脱却) しなければならないのか、と言うことである。
もし我々が、性急な「反応的自我」(反応の影)との自己同一化 ―――
即ち、自我的同定と同着化 ――― を止めて(離れて)、
今此処に (即ち、赤肉団上に)、順観(外観)しつつ逆観(内観)する
『観自在な自己』 (真人) を見届けるなら、
この人は、まぎれもなく 今此処に実在しつつ <光影を弄する人> として、
自らの面門を出入りすることとなるのだから。
――― 大徳、儞且く光影を弄する底の人を識取せよ。
是れ諸仏の本源、一切処是れ道流が帰舎の処なり。
(『臨済録』示衆一 参照)
私があえて、このような卑近な例を持ち出したのは、
「臨済の三句」が単なる認識論的な形而上(つもり)を離れて、
我々の日常的な生活(現象形態)の中に在ると言うことと、
一連する現象形態の中に立ち現れる「反応の影」とも言うべき「自我」が、
依然として「否定」されなければならないのかを、自らに問う為である。
つまり我々人間は、
単なる木石でもなければ犬猫でもないと言う意味で、
この「自己調整」し「自己制御」せんとする 「人」 (妙解の人/愛の人) までも
否定(解脱/脱却) しなければならないのか、と言うことである。
もし我々が、性急な「反応的自我」(反応の影)との自己同一化 ―――
即ち、自我的同定と同着化 ――― を止めて(離れて)、
今此処に (即ち、赤肉団上に)、順観(外観)しつつ逆観(内観)する
『観自在な自己』 (真人) を見届けるなら、
この人は、まぎれもなく 今此処に実在しつつ <光影を弄する人> として、
自らの面門を出入りすることとなるのだから。