≪愛のフロント侠 所収
『三要三玄論』 (2)
――― さて、此処からは簡潔に述べられた 『臨済録』(上堂九) を手掛かりに
その詳細をたどって行こうと思います。
私見(人我見) を許さぬ仏法にあって、尚、私見(分別) を持ち込む
愚(謗法/破戒) を自覚しつつ ・・・
≪ 一句語に須らく三玄門を具すべし ≫
【第一句】
三要印開して朱点側つ、未だ擬議を容れざるに主賓分る。
( 印章をおすと印に刻まれた文字の一点一画がくっきりと紙面に現れるように、
第一句の境地には一微塵の分別意識もないが、その中にちゃんと主観と客観、
万法が歴然と存在している。) *
* 朝比奈宗源師訳、以下も同じ。
【第二句】
妙解豈無著の問を容れんや、漚和争でか截流の機に負かん。
( その分別を超えた境地――妙解――には、分別意識上の問題である
執着するとか、しないとかの疑いなど挟む余地は全くない。
また相手の根機に応じて起す方便の知慧――漚和――も、
もともと分別意識を超えた妙解から出るのであるから、
超分別なはたらき――截流の機――にそむくものではない。)
【第三句】
棚頭に傀儡を弄するを看取せよ、抽牽都来、裏に人有り。
( 舞台上の人形がいろいろの仕草をするのは、みな舞台裏の人の演出だ。
その人を看て取らなくてはならない。)
このように、此処で述べられる 「臨済の三句」 とは、
今此処に実在する 「真人」 (一無位の真人/観世音菩薩) の、
一連する具体的な自己表明であると共に、自己開示でもあって、
言わば、臨済と言う一人の人間が、仏法(法理)の端的(大意)を
認識論的(第二義的)に分別し、三つの様態(事態性) * に振り分け
弁別 ( 認識論的「判断」) したものである。
* いわゆる、仏教の根幹を為す「佛・法・僧(衆生)」(三宝)への分別。
第一義的な「法理」の立場と、第二義的な「佛智」の立場と
第三義的な「僧行」的立場への言及(弁別)。 (三位一体/法佛人の一如)
尚、第一義的な「法理の立場」(法自体性/真諦)は、
未だ、言語道断底に「無分別」かつ「無差別」(絶対) である。
では、「第一句」 から始めてみましょう。
≪ 三要印開して朱点側つ、未だ擬議を容れざるに主賓分る ≫
――― 見ての通り 「臨済の第一句」 とは、
普遍に渡り普遍に止まる 「法(ダルマ)」 の具体的な働き(作用)の端的を
今此処に開示するもので、言わば、この世の現象的事態の根幹を為す
「生成の原理」 の間断のない端緒(発端)を表明している。 *
* 普遍に渡り普遍に止まる「法」の無始無終の法理 (永遠のはたらき)
じつは私は、この原初的な生成の事態性を、あらゆる各場に成立する
「真空の自発的対称性の破れ」 と呼んだのであり、 *
強いて言えば、場(局所対称性の現場)に限定されない
(むしろ、正確に言えばあらゆる各場を限定している)
『完全対称性』(絶対平衡場/真空場)の自律的で自発的な対称性の破れ
としたのである。 (「三要」の印開 / CPT対称性の破れ )
* 別途、「 妙法一色 花ざかり 」 とも呼んでいる。
したがって、これを性急に 「悟りの位階制」 (上下深浅前後、或は正邪を現す
ヒエラルキー) と見るのは間違いで、
それを言うなら、 (つまり、臨済師の立場をあえて代弁するなら)
臨済と言う 「一箇の人(にん)」 (真人) に把握(自覚)された「法の三態」(三様)を、
その意義(認識)する所にしたがって < 法身(法理)・報身(佛智)・応身(僧行)>
に弁別(分別/配置)したのである。 (第二義的な分別/「妙解」)
では、ここに 「三玄門」 を具す(備える)とは、いったい何を意味するのでしょう。
少なくとも 「三つの黒き門」 (幽玄の門) とは、
上述したような 絶対的な法自体性(ダルマ、或はダンマ)の三態(道程)ではなく、
むしろ、この法自体性を「今此処」に自覚している臨済師自身
――― すなわち、今此処に存在し現象化している 「場の門」 (存在の門) と
見るべきでしょう。
言う所の、「眼耳鼻舌身意」の六根に代表される「肉体(身体)の門」
これを、集約的に <身(玄中玄)・口(句中玄)・意(体中玄)> の
「三玄門」(「三密」とも称される) に分別したものと思われる。
つまり、法(ダルマ/ダンマ)と言えども、「場」と言う「所在」を持たない限り
自己対称化(相対化/相称化)することが出来ず、( 逆に言えば、自己対称化し
自己相称化する限り「場」を持つとも言えるが ) ――――― 何よりも、
身体と口と心(意識)と言う 「表現(表象)の門」 を持たない限り、
「愛(慈悲)の発露」 とも言うべき 「愛のかたち」 を表すことが出来ない、
即ち、 <不可能> だからに他なりません。 (自己表現=自己実現の不能)
このように、法(法身)が 「みっつのくろき門」(身体・口舌・意相)を
備えることによって、「存在論的立場」 と 「認識論的立場」 と、
人間的な 「心理的立場」 (人性論的/倫理的立場) とが開かれる。* (場の三玄門)
* 存在論的な「身体」は、「形相」(態度/姿勢/動静)を現し
認識論的な「口舌」は、「音声」或は「言語」(観念や概念を含む)を表明し
心理的な「意相」(意識)は、様々な人間的「意向」を現して
その「方向性」の開示に努めている。
――― その他にも「意力」に依る「場の強弱」(硬軟)、
或は、「意義」の把握に依る「場の軽重」も認められる。
その意味から言えば、ここに言われる 「玄」(くろきもの) とは、
あらゆる各場に浸透し、あらゆる各場を貫徹しつつ開示する「場(存在)の自覚」
――― すなわち、「人の自覚」(局所対称性の自覚/自灯明/心)
と言えるでしょうか。
とりあえず、今日はここまでにします。
『三要三玄論』 (2)
――― さて、此処からは簡潔に述べられた 『臨済録』(上堂九) を手掛かりに
その詳細をたどって行こうと思います。
私見(人我見) を許さぬ仏法にあって、尚、私見(分別) を持ち込む
愚(謗法/破戒) を自覚しつつ ・・・
≪ 一句語に須らく三玄門を具すべし ≫
【第一句】
三要印開して朱点側つ、未だ擬議を容れざるに主賓分る。
( 印章をおすと印に刻まれた文字の一点一画がくっきりと紙面に現れるように、
第一句の境地には一微塵の分別意識もないが、その中にちゃんと主観と客観、
万法が歴然と存在している。) *
* 朝比奈宗源師訳、以下も同じ。
【第二句】
妙解豈無著の問を容れんや、漚和争でか截流の機に負かん。
( その分別を超えた境地――妙解――には、分別意識上の問題である
執着するとか、しないとかの疑いなど挟む余地は全くない。
また相手の根機に応じて起す方便の知慧――漚和――も、
もともと分別意識を超えた妙解から出るのであるから、
超分別なはたらき――截流の機――にそむくものではない。)
【第三句】
棚頭に傀儡を弄するを看取せよ、抽牽都来、裏に人有り。
( 舞台上の人形がいろいろの仕草をするのは、みな舞台裏の人の演出だ。
その人を看て取らなくてはならない。)
このように、此処で述べられる 「臨済の三句」 とは、
今此処に実在する 「真人」 (一無位の真人/観世音菩薩) の、
一連する具体的な自己表明であると共に、自己開示でもあって、
言わば、臨済と言う一人の人間が、仏法(法理)の端的(大意)を
認識論的(第二義的)に分別し、三つの様態(事態性) * に振り分け
弁別 ( 認識論的「判断」) したものである。
* いわゆる、仏教の根幹を為す「佛・法・僧(衆生)」(三宝)への分別。
第一義的な「法理」の立場と、第二義的な「佛智」の立場と
第三義的な「僧行」的立場への言及(弁別)。 (三位一体/法佛人の一如)
尚、第一義的な「法理の立場」(法自体性/真諦)は、
未だ、言語道断底に「無分別」かつ「無差別」(絶対) である。
では、「第一句」 から始めてみましょう。
≪ 三要印開して朱点側つ、未だ擬議を容れざるに主賓分る ≫
――― 見ての通り 「臨済の第一句」 とは、
普遍に渡り普遍に止まる 「法(ダルマ)」 の具体的な働き(作用)の端的を
今此処に開示するもので、言わば、この世の現象的事態の根幹を為す
「生成の原理」 の間断のない端緒(発端)を表明している。 *
* 普遍に渡り普遍に止まる「法」の無始無終の法理 (永遠のはたらき)
じつは私は、この原初的な生成の事態性を、あらゆる各場に成立する
「真空の自発的対称性の破れ」 と呼んだのであり、 *
強いて言えば、場(局所対称性の現場)に限定されない
(むしろ、正確に言えばあらゆる各場を限定している)
『完全対称性』(絶対平衡場/真空場)の自律的で自発的な対称性の破れ
としたのである。 (「三要」の印開 / CPT対称性の破れ )
* 別途、「 妙法一色 花ざかり 」 とも呼んでいる。
したがって、これを性急に 「悟りの位階制」 (上下深浅前後、或は正邪を現す
ヒエラルキー) と見るのは間違いで、
それを言うなら、 (つまり、臨済師の立場をあえて代弁するなら)
臨済と言う 「一箇の人(にん)」 (真人) に把握(自覚)された「法の三態」(三様)を、
その意義(認識)する所にしたがって < 法身(法理)・報身(佛智)・応身(僧行)>
に弁別(分別/配置)したのである。 (第二義的な分別/「妙解」)
では、ここに 「三玄門」 を具す(備える)とは、いったい何を意味するのでしょう。
少なくとも 「三つの黒き門」 (幽玄の門) とは、
上述したような 絶対的な法自体性(ダルマ、或はダンマ)の三態(道程)ではなく、
むしろ、この法自体性を「今此処」に自覚している臨済師自身
――― すなわち、今此処に存在し現象化している 「場の門」 (存在の門) と
見るべきでしょう。
言う所の、「眼耳鼻舌身意」の六根に代表される「肉体(身体)の門」
これを、集約的に <身(玄中玄)・口(句中玄)・意(体中玄)> の
「三玄門」(「三密」とも称される) に分別したものと思われる。
つまり、法(ダルマ/ダンマ)と言えども、「場」と言う「所在」を持たない限り
自己対称化(相対化/相称化)することが出来ず、( 逆に言えば、自己対称化し
自己相称化する限り「場」を持つとも言えるが ) ――――― 何よりも、
身体と口と心(意識)と言う 「表現(表象)の門」 を持たない限り、
「愛(慈悲)の発露」 とも言うべき 「愛のかたち」 を表すことが出来ない、
即ち、 <不可能> だからに他なりません。 (自己表現=自己実現の不能)
このように、法(法身)が 「みっつのくろき門」(身体・口舌・意相)を
備えることによって、「存在論的立場」 と 「認識論的立場」 と、
人間的な 「心理的立場」 (人性論的/倫理的立場) とが開かれる。* (場の三玄門)
* 存在論的な「身体」は、「形相」(態度/姿勢/動静)を現し
認識論的な「口舌」は、「音声」或は「言語」(観念や概念を含む)を表明し
心理的な「意相」(意識)は、様々な人間的「意向」を現して
その「方向性」の開示に努めている。
――― その他にも「意力」に依る「場の強弱」(硬軟)、
或は、「意義」の把握に依る「場の軽重」も認められる。
その意味から言えば、ここに言われる 「玄」(くろきもの) とは、
あらゆる各場に浸透し、あらゆる各場を貫徹しつつ開示する「場(存在)の自覚」
――― すなわち、「人の自覚」(局所対称性の自覚/自灯明/心)
と言えるでしょうか。
とりあえず、今日はここまでにします。