≪愛のゆくえ≫ 所収
――― 各場的な状況(状態量)の中に在って、不断に変容(相転移)し続ける
各場的な状況(状態量)に応じて、観自在に対処し対応(運動量)する者。
限りなく、各場的な「局所対称性の現場」(場の平衡)を守るべく、
一人、「愛のフロント」に立つ者。*
* 場の崩壊(局所対称性の破れ/平衡の破れ/非対称/非平衡)を食い止める者、
或は、場の成立(局所対称性/場の平衡)を守る者。 (場の守護者/一隅を守る者)
――― この時、各場的な「場の状態量」と「場の運動量」の相応を
『当為』(正応/正行為) と呼び、「場の状態量」と「場の運動量」の
不相応(齟齬/蹉跌)を 『不当為』(愛ならざるもの) * と呼んでいる。
* 過不足する愛 (「愛の妄動」や「愛の不毛」を含む)
その意味では、この世には「愛」(当為)と「愛ならざるもの」(不当為)
のみがあって、本来的に「善悪」は無いものと見える。
勿論、「場の状態量」には「他者」や「対象」(他場)も含まれるし、
各場的な「ロケーション」や「天候」、或は「自然現象」と言った
「場の状況」(シチュエーション)の一切が組み込まれている。
――― ( 状態の共存 / 状態の重ね合わせ )
つまり「場の状態量」とは「自己場の全体」(内容/現容量)であり、
他己(他場)を含む、局所対称性を開示した「場の全体量」(場のエネルギー総量)
である。 ( このようにして重ね合わされ組み込まれた場の「エネルギー総量」は
「無限大」に達する )
その意味では、各場的な『場の状況』(実相)であり、
「場の空気」(モード)であり、「場の雰囲気」(アトモスフィア)でもあって、
このような「場の空気」(けはい)を読みつつ(すなわち、「感知」しつつ)
自場的な『場の情況』(場の事情)との「折り合い」(つりあい)を付けるのが、
『機境相応』(正応)と呼ばれ、『性相の一如』(性相の一致)と呼んでいる。
この時、観自在に 「場の状況」(全体/超個) と 「場の事情」(部分/個)」 との
折り合いを付けるのは ( 即ち、「当為」の主体は )、
何処までも・・・
< 常に今此処に在って了々と自明な自己 > と呼ばれる
「場の叡智」(先験的自明性)であり、
各場的な局所対称性を開示する 『人』 (真人) だと言える。
――― 各場的な状況(状態量)の中に在って、不断に変容(相転移)し続ける
各場的な状況(状態量)に応じて、観自在に対処し対応(運動量)する者。
限りなく、各場的な「局所対称性の現場」(場の平衡)を守るべく、
一人、「愛のフロント」に立つ者。*
* 場の崩壊(局所対称性の破れ/平衡の破れ/非対称/非平衡)を食い止める者、
或は、場の成立(局所対称性/場の平衡)を守る者。 (場の守護者/一隅を守る者)
――― この時、各場的な「場の状態量」と「場の運動量」の相応を
『当為』(正応/正行為) と呼び、「場の状態量」と「場の運動量」の
不相応(齟齬/蹉跌)を 『不当為』(愛ならざるもの) * と呼んでいる。
* 過不足する愛 (「愛の妄動」や「愛の不毛」を含む)
その意味では、この世には「愛」(当為)と「愛ならざるもの」(不当為)
のみがあって、本来的に「善悪」は無いものと見える。
勿論、「場の状態量」には「他者」や「対象」(他場)も含まれるし、
各場的な「ロケーション」や「天候」、或は「自然現象」と言った
「場の状況」(シチュエーション)の一切が組み込まれている。
――― ( 状態の共存 / 状態の重ね合わせ )
つまり「場の状態量」とは「自己場の全体」(内容/現容量)であり、
他己(他場)を含む、局所対称性を開示した「場の全体量」(場のエネルギー総量)
である。 ( このようにして重ね合わされ組み込まれた場の「エネルギー総量」は
「無限大」に達する )
その意味では、各場的な『場の状況』(実相)であり、
「場の空気」(モード)であり、「場の雰囲気」(アトモスフィア)でもあって、
このような「場の空気」(けはい)を読みつつ(すなわち、「感知」しつつ)
自場的な『場の情況』(場の事情)との「折り合い」(つりあい)を付けるのが、
『機境相応』(正応)と呼ばれ、『性相の一如』(性相の一致)と呼んでいる。
この時、観自在に 「場の状況」(全体/超個) と 「場の事情」(部分/個)」 との
折り合いを付けるのは ( 即ち、「当為」の主体は )、
何処までも・・・
< 常に今此処に在って了々と自明な自己 > と呼ばれる
「場の叡智」(先験的自明性)であり、
各場的な局所対称性を開示する 『人』 (真人) だと言える。