≪愛のゆくえ≫ 所収



  愛が、当面する現場(現実)の 「当為」 (当必然的自明性/自明的行為) を逸脱して

  過不足する時、この愛は、 「不当為」 とも言うべき 「愛ならざるもの」 に変質し

  「愛の蹉跌」 へと変容する。 *


  * 正確には、愛が 「変質」 するのでも 「変容」 するのでもなく、

   単に当為から 「逸脱」 (ハズレ) するだけなのだが ・・・。

   
  この時 「当為」 は、私にとって 「愛」 と同義語 (シノニム) であり、

  「不当為」 は、 「愛ならざるもの」 (過不足する愛) とシノニムである。



  つまり、愛とは、「愛ならざるもの」 (不当為) の否定でも排除でもなく、

  多様な愛の変容形態 (グラデーション/バリエーション) の中の

  「当り」 (正当性/適当) と 「外れ」 (不当性/不適当) のようなものであり、

  例えて言えば、

  風呂の湯加減などで言う “好い加減” (適当な湯加減) に相当する。

  ――― 火傷するほどにも熱過ぎず、風邪を引くほどにもぬる過ぎない

  適当で適切な 「愛の湯加減」。  (機境相応/愛の個別的差異性)


 
  こんな曖昧な個別的感性(センス)を、崇高な普遍的「愛」と一緒にされてはタマラン

  と、おっしゃる向きも有ろうかとは思うが、

  ここんところは、今少し御勘弁を頂いて、

  とりあえず、 場の「状態量」 と 場の「運動量」 の相即(合致/一如) を

  「当為」 となし、「愛」 (自他に渡る済度) と呼んで見たいと

  思っています。  (性相の一致/知行合一)