平成18年11月10日(金)       ≪なんでやねん侠 所収



  
   ≪ 清浄の行者涅槃に入らず、破戒の比丘地獄に堕せず。 ≫



   閒蟻争い曳く 蜻蜒の翼、

   忙燕並び憩う 楊柳が枝。

   蚕婦 籃を携へて菜色多し、
 
   村童 筍を偸んで疎籬を過ぐ。  (白隠)



 
  彼(白隠)は、「不入涅槃の理(ことわり)」 を表すのに、

  まったく無造作なまでに、覿面する情景(生活世界)を事もなげに取り上げている。

  この「脱・モラル」(非言語ゲーム世界)とも言うべき境界を知る者にとっては、

  もはや、殊更に拾い上げる(取り上げる)事態もなければ、殊更に捨て去るものも無く、

  言わば尋常一般のことがら(当たり前の事態) として、

  『現今即是の現法』 (即事而真) を物語っている。


 
  これこそ、『法華経』に言う「即是道場」(久遠実成)に他ならず、

  『臨済録』(臨済)に於いては、

  「山僧が見処に約せば、無佛無衆生、無古無今、得る者は便ち得、時節を歴ず。

  無修無証、無得無失、一切時中更に別法無し。

  設(たと)い 一法の此に過ぎたる者あるも、

  我は説かん、如夢如化と」 と、断言されるに到る。


  
  さらに続けて、

  ――― 「 道流(おまえたち)、大丈夫児は今日方(まさ)に知る、本来無事なることを。

  祇(ただ)?茄(なんじ)が信不及なるが為に、念念駆求(ちぐ)して、

  頭(こうべ)を捨てて頭を覓(もと)め、自ら歇(や)むこと能わず。

  円頓の菩薩の如きは、法界に入って身を現じ、浄土の中に向かって

  凡を厭(いと)い聖を忻(ねが)う。

  此(かく)の如きの流(たぐい)、取捨未だ忘ぜず、染浄の心在り。

 
  
  禅宗の見解(けんげ)の如きは、又且つ然らず。

  直に是れ現今なり。更に時節無し。

  山僧が説処、皆是れ一期の薬病相治す、総に実法無し。

  若し是(かく)の如く見得せば、是れ真の出家、

  日に万両の黄金を消せん 」 と。

           
                  ( 『臨済録』示衆五 参照 )



  ――― 何とも、あまりにもはっきり(自明/分明)しすぎるために、

  返って気付くのに、手間が掛りすぎたよ。

  もっと早くに、この灯(ともしび)が 火(神の火)だと解ってりゃ、

  こんなにも苦労はせずに 済んだものを・・・。 (括弧内 筆者挿入)


  ※ かなり恣意的な意訳につき、原文を参照されたし。


                (『無門関』七「趙州洗鉢」の頌 参照 )