平成18年11月6日(月) ≪ なんでやねん侠 所収
当処に覿面し正面(正対)すれば、「如是の実相」ばかりで
いまだ思惟に依る「自己限定化」(部分化/断片化)も無ければ、
自己意識的な「自己対象化」(相対化)も無く、
もとより、自他(主客/能所/彼此)の分別さえ
有りはしないのです。 (自己本来の面目)
ありのままの現実(如是の実相)を前にして、
いったい何処に「煩悩」が有り、「菩提」が有ると言うのでしょう。
此処には、未だ「是非」も無く、「善悪」も無く、「生死」も無く、
いわんや「聖と俗」(仏と凡夫)の区別さえ有りはしないのですから。
当処 『一乗法の世界』 なれば、実に四維上下のへだてなく、
一切の観念や概念の一片(かけら)もありゃしないのですから。
――― 当処、覿面するに 『無何有の里』 と知れる。
当処に覿面し正面(正対)すれば、「如是の実相」ばかりで
いまだ思惟に依る「自己限定化」(部分化/断片化)も無ければ、
自己意識的な「自己対象化」(相対化)も無く、
もとより、自他(主客/能所/彼此)の分別さえ
有りはしないのです。 (自己本来の面目)
ありのままの現実(如是の実相)を前にして、
いったい何処に「煩悩」が有り、「菩提」が有ると言うのでしょう。
此処には、未だ「是非」も無く、「善悪」も無く、「生死」も無く、
いわんや「聖と俗」(仏と凡夫)の区別さえ有りはしないのですから。
当処 『一乗法の世界』 なれば、実に四維上下のへだてなく、
一切の観念や概念の一片(かけら)もありゃしないのですから。
――― 当処、覿面するに 『無何有の里』 と知れる。