平成18年9月26日(火)       ≪どないやねん≫ 所収


 
 「それ」(it) が何であれ、それがそれである限り、それはそれでしかありません。

 ――― 「それ」を「運命」或は、「宿命」と読み替えてもらっても結構です。
 
 
 
 「それ」が「問題化」(主題化/対自化)される過程を見てみると、「それをそれとして
 自己対称化し、それと意識する限り、それはそれで有りつづけ、それでしかない」 のです。

 ――― 加減乗除は勿論のこと、どんなに微積分に掛けようともです。
 
 
 つまり、どのような「過程」(道程)を踏もうが、どのような「解答」を得ようが
 その答え如何に拘わらず、「それ」を「それ」と意識する限り ≪「それ」(it) は
 「それ」(it) で有り続ける ≫ のです。   (有相の見)

 ――― たとえ 「それ」 が、とてつもない 「さとり」 だとしてもです。


 先の大戦の末期、東京の下町では上空にB29が飛び交うなか、女将さん連中は相変わらず
 日々の生活に忙しく、洗濯したり洗い物をしながら「キャッキャ」と井戸端会議を続けていた
 と、安吾はその『堕落論』に伝えています。


 一方で多くの若者達は、「生きるべきか死すべきか」と彼のシェクスピアの呪文を唱えながら
 『歎異抄』や『善の研究』などを懐に忍ばせ、切迫する自らの運命について真剣に自問自答
 したと聞いています。


 こんなものが「答え」になるのかどうか、およそ心もとないのですが、
 要は、「それ」(it) が「それ」として自己対称化(対象化/相対化/意識化)されている限り、
 ――― つまり「それ」が自らのうちに了解され納得されない限り、
 私達は一歩も 『運命の外』 には出られないと言えるのかも知れません。


 次回も、おなじテーマをいま少し続けます。