平成18年9月18日(月)       ≪Oyajiの部屋≫ 所収


  > 自然派と言う名の・・・。

 
 ――― 俺が言いたいのは、こう言うことだ。

 もう、いい加減にEGOとECOの壁(垣根)を取り外したほうが好いのではないかと。

 つまりEGOとECOとが、いつまでもEGOの側から為される一方的な対置(相対)概念である限り、

 収奪(搾取)するものと収奪(搾取)されるものとの関係は終わらないし、

 なによりも、「生かすもの」と「生かされるもの」との関係が逆転したまま、

 当の「生かすもの」が益々やせ細り汚されて、およそ我々一切衆生(生きとし生けるもの)の

 「生存の基盤」(生存の根拠)足り得なくなると言う事なのだ。

 
 こんな事くらい、きょうびの子供でもザラに知っている事柄には違いないのだが、

 これが厄介なのは、単に「知っている」(知的判断/分別)だけでは済まないと言うこと、

 のみならず、どうも「生存の根拠」自体が危機的状況を呈し始めていると言う

 大方の見方(判断/分別)なのだ。 (能天気な人は別として)


 すでに多くの者が、何となく「生存の危機」を感じ始め、目の当たりに「生存の基盤」が

 揺るぎ始めているのを見るにつけ、「このままで良いのだろうか」と、戸惑いの中に

 立ち尽くし、立ち止まり始めている。

 
 特に、次世代を担う孫や子とも言える若い人たちの「将来に対する漠然とした不安」。

 先行き不透明な「不確実性」と「苛立ち」・・・。

 また、それを平然と押し進めてきた(少なくとも、知らん振りして“頬ッカムリ”してきた)

 前世代(つまり、おれ達「親の世代」)に対する、言いようのない「もどかしさ」と

 「抵抗」と「怒り」と「悲しみ」と。 (・・・そして、いじらしいまでの愛と。)

 
 人皆が、弁解のしようもなく避けようも無い「抜き差しならぬ事態」へと向かっている感覚

 (感性/センス)は、何も一々論証を待たずとも「自明(当たり前)のもの」となっている。


 
 ――― ここじゃ、何処まで行っても「生かすもの」が「生かされるもの」であり、

 「生かされるもの」が「生かすもの」(本来一如)で在るのに・・・。