平成18年8月23日(水) ≪だるまさんが転んだ≫ 所収
何人が、この三連句の即非的な事態的展開の一如(無矛盾)を共有してくれたろう。
「龍頭龍尾を噛む」(龍尾龍頭に交わる)が如き、各々が別個(個別)で有りながら
別個に有らざる「見聞覚知非一一」の処、<一即三、三即一> と出自転回(回互)しつつ、
一向に無矛盾に透得過(応病与薬/自救他救/済度)して行くところを。
≪ 大道無門、千差路有り。 ≫
少なくとも、私にとっては第一句(永久の春)が「P対称性」(自明自証性)を顕して
過不足のない現況(要諦)を開示して、第二句(さとり)の「C対称性」(自律自戒性)
へと相転移されるのであるし、第二句の現用底(要関)が、第三句(三連非)の「T対称性」
(自発自転性)へと即非的に展開(相転移)して、各箇それぞれが主となり伴となって
ランダムに(即ち、臨機応変/当意即妙に)回互転回(回心)するのであるから。
これが、「三要印開して朱点側つ 未だ擬議を容れざるに主賓分る」( 臨済「第一句」)
と呼ばれる「出自の刹那(瞬間)」であり、同時に、この現象場の常態(恒常性)でもあって、
私のいう「開闢以来の因縁」(佛家一大事の因縁)を余す所なく伝えて過不足ないのであるから。
しかも、此の三句的境界の様相(モード)を分明に見分け(分別/判断)しない限り、
『無門関』はおろか、『碧巌録』等の思弁的で作為的な(つまり、言辞的で人間的な)
「パラドックス」( 即ち「公案」/仮構/罠 )は、およそ解けるものではないのだから。
特に、P対称性とC対称性(要諦と要関)のアンチノミー(絶対矛盾的自己同一/二律背反)が
無矛盾に了解出来ない限り、トータルに絶対不可逆的に相転移して行く「生成のダイナミズム」
には、永遠に触れようもないのだから。
( しかも、この時空的生成さえも飛び越えて・・・。)
―――― 諸行無常 是生滅法
生滅滅已 寂滅為楽
何人が、この三連句の即非的な事態的展開の一如(無矛盾)を共有してくれたろう。
「龍頭龍尾を噛む」(龍尾龍頭に交わる)が如き、各々が別個(個別)で有りながら
別個に有らざる「見聞覚知非一一」の処、<一即三、三即一> と出自転回(回互)しつつ、
一向に無矛盾に透得過(応病与薬/自救他救/済度)して行くところを。
≪ 大道無門、千差路有り。 ≫
少なくとも、私にとっては第一句(永久の春)が「P対称性」(自明自証性)を顕して
過不足のない現況(要諦)を開示して、第二句(さとり)の「C対称性」(自律自戒性)
へと相転移されるのであるし、第二句の現用底(要関)が、第三句(三連非)の「T対称性」
(自発自転性)へと即非的に展開(相転移)して、各箇それぞれが主となり伴となって
ランダムに(即ち、臨機応変/当意即妙に)回互転回(回心)するのであるから。
これが、「三要印開して朱点側つ 未だ擬議を容れざるに主賓分る」( 臨済「第一句」)
と呼ばれる「出自の刹那(瞬間)」であり、同時に、この現象場の常態(恒常性)でもあって、
私のいう「開闢以来の因縁」(佛家一大事の因縁)を余す所なく伝えて過不足ないのであるから。
しかも、此の三句的境界の様相(モード)を分明に見分け(分別/判断)しない限り、
『無門関』はおろか、『碧巌録』等の思弁的で作為的な(つまり、言辞的で人間的な)
「パラドックス」( 即ち「公案」/仮構/罠 )は、およそ解けるものではないのだから。
特に、P対称性とC対称性(要諦と要関)のアンチノミー(絶対矛盾的自己同一/二律背反)が
無矛盾に了解出来ない限り、トータルに絶対不可逆的に相転移して行く「生成のダイナミズム」
には、永遠に触れようもないのだから。
( しかも、この時空的生成さえも飛び越えて・・・。)
―――― 諸行無常 是生滅法
生滅滅已 寂滅為楽