平成18年7月24日(月) ≪煩悩のかさぶた≫ 所収
オルフェの悲劇
わたしが、「触犯の事情」 と呼んでいるものを、
ここで、今一度整理して置こうと思います。
そもそも、アプリオリに与件された天与天恵の主体 (主人公) とも
言うべき 「自己本来の面目」 (現今了々と自明なる自己) には、
これまで縷々述べて来たような 「思弁的内容」 (弁明/主張) は、
如何なる意味でも保持 (持続) も担保 (定立) もしておりません。
『持続』 (連続/常見)、或は 『定立(反定立を含む)』 (不連続/断見) は、
これ自体が 「慣性系の出来事」 であり、記憶 (過去/経験/知識) と連関しつつ
連動する 「習慣性の遺物」 (人為的所産/アート/カルマ) と心得ます。
(「慣性の法則」に従う言語ゲーム世界 )
≪ 持続 (連続) も断絶 (不連続) もない叡智 ≫
今此処に在って了々と自明に晴れ渡り、当面する事態を限りなく切実に
済み (澄み) 渡らせて行く自己には、如何なる意味でも言辞的・言語的な
屍衣 (表象) を纏 (まと) うことは無いのですから。
この叡智 (自己) は、自他に渡るあらゆる各場を自己対称化 (対象化/相対化)
することは有っても、決して自らを自己対称化することはないのですから。 *
* 人の側からなる意識的な可逆的遡及の断絶
――― (自力に依る時空的遡及の不可能性)
即ち、順観の可能性 (絶対不可逆性) と
逆観の可逆的遡及の不可能性 。
――― (可逆性の断絶/限界)
これが、臨済に言う
≪ 覓著すれば転(うた)た遠く、之を求むれば転た乖(そむ)く ≫
【 臨済の秘密 】
の真意 (無位/無相) であり、自・他場を限りなく自己対称化しつつも、
決して自らを自己対称化できない、生成の 「絶対不可逆性」 (独処一方性) と
「絶対性」 (相対を絶している) の実証的 (自照的/自証的) 根拠である。
≪ ここでは 「見るものが見られる者」 であり、
「見られる者が見る者」 だと了解されるのです。≫
六祖も又、その親切を凝らして、此の辺の事情 (触犯の事情) を
懇切丁寧に述べておられる。
『無門関』二十三「不思善悪」に曰く、
――― 祖(六祖)云く、
「不思善、不思悪、正与麼の時、那箇か是れ明上座(汝)が本来の面目」。
明、当下に大悟、遍体汗流る。
泣涙作礼し、問うて曰く、
「上来の密語密意の外、還って更に意旨有りや」。
祖曰く、
「我れいま汝が為に説くものは、即ち密に非ず。
汝若し自己の面目を返照せば、密は却って汝が辺に在らん」 と。
(岩波文庫)
これが、「刀は、刀自体を切れない」 のと同様に、
「鏡は鏡自身を写さない(写せない)」 と言われる所為である。*
* 『彼岸の岸辺』の「存在の叡智」(4 /13日分 所収)参照。
http://blogs.yahoo.co.jp/kyouoyaji/2438610.html
( 今此処で、これを単なる言葉にしないで実際にやって御覧なさい 。
・・・ 嘘じゃないことが、解ると思いますよ。)
したがって、此処で顧みられた (つまり逆観化され反省された) 自己は、
自己対称化された 「自場」 (客体/現場) では在っても、
決して 「自己対称化する自己」 (主体) ではなく、返って自己対称化する主体は、
自己場を自己対象化 (相対化/相称化/客観化) する自己として、
周辺部に 「回心」 (後退) してしまうのである。* (一無位の真人)
* このような事態性をフッサールは、たしか 「後退化」 とか 「伏在化」 と
呼んでいたように記憶しています。 (間違っていたらごめんなさい。)
(・・・ 私事に渡りますが、私ども引越したばかりで文献に当たろうにも
今のところ侭なりません。あしからず御免被ります。)
オルフェの悲劇
わたしが、「触犯の事情」 と呼んでいるものを、
ここで、今一度整理して置こうと思います。
そもそも、アプリオリに与件された天与天恵の主体 (主人公) とも
言うべき 「自己本来の面目」 (現今了々と自明なる自己) には、
これまで縷々述べて来たような 「思弁的内容」 (弁明/主張) は、
如何なる意味でも保持 (持続) も担保 (定立) もしておりません。
『持続』 (連続/常見)、或は 『定立(反定立を含む)』 (不連続/断見) は、
これ自体が 「慣性系の出来事」 であり、記憶 (過去/経験/知識) と連関しつつ
連動する 「習慣性の遺物」 (人為的所産/アート/カルマ) と心得ます。
(「慣性の法則」に従う言語ゲーム世界 )
≪ 持続 (連続) も断絶 (不連続) もない叡智 ≫
今此処に在って了々と自明に晴れ渡り、当面する事態を限りなく切実に
済み (澄み) 渡らせて行く自己には、如何なる意味でも言辞的・言語的な
屍衣 (表象) を纏 (まと) うことは無いのですから。
この叡智 (自己) は、自他に渡るあらゆる各場を自己対称化 (対象化/相対化)
することは有っても、決して自らを自己対称化することはないのですから。 *
* 人の側からなる意識的な可逆的遡及の断絶
――― (自力に依る時空的遡及の不可能性)
即ち、順観の可能性 (絶対不可逆性) と
逆観の可逆的遡及の不可能性 。
――― (可逆性の断絶/限界)
これが、臨済に言う
≪ 覓著すれば転(うた)た遠く、之を求むれば転た乖(そむ)く ≫
【 臨済の秘密 】
の真意 (無位/無相) であり、自・他場を限りなく自己対称化しつつも、
決して自らを自己対称化できない、生成の 「絶対不可逆性」 (独処一方性) と
「絶対性」 (相対を絶している) の実証的 (自照的/自証的) 根拠である。
≪ ここでは 「見るものが見られる者」 であり、
「見られる者が見る者」 だと了解されるのです。≫
六祖も又、その親切を凝らして、此の辺の事情 (触犯の事情) を
懇切丁寧に述べておられる。
『無門関』二十三「不思善悪」に曰く、
――― 祖(六祖)云く、
「不思善、不思悪、正与麼の時、那箇か是れ明上座(汝)が本来の面目」。
明、当下に大悟、遍体汗流る。
泣涙作礼し、問うて曰く、
「上来の密語密意の外、還って更に意旨有りや」。
祖曰く、
「我れいま汝が為に説くものは、即ち密に非ず。
汝若し自己の面目を返照せば、密は却って汝が辺に在らん」 と。
(岩波文庫)
これが、「刀は、刀自体を切れない」 のと同様に、
「鏡は鏡自身を写さない(写せない)」 と言われる所為である。*
* 『彼岸の岸辺』の「存在の叡智」(4 /13日分 所収)参照。
http://blogs.yahoo.co.jp/kyouoyaji/2438610.html
( 今此処で、これを単なる言葉にしないで実際にやって御覧なさい 。
・・・ 嘘じゃないことが、解ると思いますよ。)
したがって、此処で顧みられた (つまり逆観化され反省された) 自己は、
自己対称化された 「自場」 (客体/現場) では在っても、
決して 「自己対称化する自己」 (主体) ではなく、返って自己対称化する主体は、
自己場を自己対象化 (相対化/相称化/客観化) する自己として、
周辺部に 「回心」 (後退) してしまうのである。* (一無位の真人)
* このような事態性をフッサールは、たしか 「後退化」 とか 「伏在化」 と
呼んでいたように記憶しています。 (間違っていたらごめんなさい。)
(・・・ 私事に渡りますが、私ども引越したばかりで文献に当たろうにも
今のところ侭なりません。あしからず御免被ります。)