平成18年7月5日(水) 書庫:≪煩悩のかさぶた≫ 所収
ここでは、「思量底」から「非思量底」への経緯(因縁)を諦めるを『究竟次第』
(或は、「究竟次第の因縁」)と呼び、「非思量底」から「思量底」への経緯を諦めるを
『生起次第』(或は、「生起次第の因縁」)と呼んでいます。* (身心脱落・脱落身心)
* 思量底(自覚場 / 出身底)。 非思量底(無自覚場 / 脱落底)。
所謂、ミクロ・コスモスからマクロ・コスモスへの展開(脱自)を『究竟次第』と呼び、
マクロ・コスモスからミクロ・コスモスへの発展(入自)を『生起次第』と呼んでいるのです。
この「個から超個へ」「超個から個へ」の両義次第を諦めることによって、
(各場的な独処一方性による)双方向性を保つ現象界(相対世界)の『相即相入の次第』
(双入の次第 / 入自と出自 / 入我我入)を明らかにするのである。
< 色即是空・空即是色 / 色不異空・空不異色 >
禅では、この両義次第を「心解脱」(光明発得)と「慧解脱」(戒体発得)と呼び、
いわゆる、双方向性の修行法として、一方では、「三昧」(サマディー・禅定)を中心とした
修行法として、今一方は「八正道分修行」(大乗法)の一環(主として悟後の修行)として、
それぞれに、「心空」と「法空」との両義次第を諦めるのである。 *
* 釈尊においては「心解脱」(心空・小乗)から「慧解脱」(法空・大乗)への
発展的展開が認められます。
この両義次第の因縁(即ち「縁起」)を諦めることによって、言う所の最後決定的な
「因縁空」(即ち「縁起空」)を成就し、その究極(フロント)たる『三祇劫空』
(阿耨多羅三藐三菩提・無生法忍)に達するのだと言える。 (一切皆空 / 悉有仏性)
ただ、ここで大事なことを申し添えれば、それが思量底から非思量底(個から超個)
への展開(身心脱落)であろうが、反対に非思量底から思量底(超個から個)への展開
(脱落身心)であろうが、単にパラレルに移行(相転移)するのではなく、(脱落・超越 / 頓悟)
そこには必ず「場」に於ける『断絶』(不連続性・対称性の破れ・場の特異点)が介在して、
いわゆる、プロティヌス流の一元的発出論や発展論の介在する余地がないのである。
( 存在し現成する者の奇蹟 )
・・・・< 不連続(断絶)の連続(持続) / 連続(持続)の不連続(断絶)>・・・・
これが 『神(超個)と人(個)との断絶』 (絶対否定即絶対肯定) と呼ばれるものであり、*
この神と人との断絶(絶望・有限性)を通じて、人は、その存在の“たよりなさ”(無根拠性)や
“あてどなさ”(無限定性)或はその“とりとめのなさ”(無際限性)に責め苛まれ、
希望と絶望との百分比の中を彷徨うと言うきわめて厄介な「白昼の狂気」(煩悩)を生きるはめと
なったのである。 (せつなき者 / あわれなる者 / もののあわれ)
* 『即非即即是』(生死一如 / 生成即消滅)の絶対矛盾的自己同一
したがって、
ここでは、局所対称性の破れ(場の破れ)が、完全対称性への帰還(還元・凍結)であり、
完全対称性の自発的対称性の破れが、局所対称性の成立(場の成立・生成即消滅)
となっている。 (場を介在とする神と人との不可分・不可同・不可逆性)
<「即非即即是」(生成即消滅)の回互的転回 / 転法輪の事態性 / 真空の相転移 >
これらは生成の絶対不可逆性の中にあって、「不連続の連続性」(連続の不連続性)
を保って、今も猶、その「断絶の手」(絶対否定の介在)を緩めてはいないのである。
( 場の特異点 / 特異性 )
・・・この論考、なお触犯(恥の上塗り)するに相似たり。
「開口不得」と言うも「説似一物即不中」と言うも、なお饒舌。 (南無生)
ここでは、「思量底」から「非思量底」への経緯(因縁)を諦めるを『究竟次第』
(或は、「究竟次第の因縁」)と呼び、「非思量底」から「思量底」への経緯を諦めるを
『生起次第』(或は、「生起次第の因縁」)と呼んでいます。* (身心脱落・脱落身心)
* 思量底(自覚場 / 出身底)。 非思量底(無自覚場 / 脱落底)。
所謂、ミクロ・コスモスからマクロ・コスモスへの展開(脱自)を『究竟次第』と呼び、
マクロ・コスモスからミクロ・コスモスへの発展(入自)を『生起次第』と呼んでいるのです。
この「個から超個へ」「超個から個へ」の両義次第を諦めることによって、
(各場的な独処一方性による)双方向性を保つ現象界(相対世界)の『相即相入の次第』
(双入の次第 / 入自と出自 / 入我我入)を明らかにするのである。
< 色即是空・空即是色 / 色不異空・空不異色 >
禅では、この両義次第を「心解脱」(光明発得)と「慧解脱」(戒体発得)と呼び、
いわゆる、双方向性の修行法として、一方では、「三昧」(サマディー・禅定)を中心とした
修行法として、今一方は「八正道分修行」(大乗法)の一環(主として悟後の修行)として、
それぞれに、「心空」と「法空」との両義次第を諦めるのである。 *
* 釈尊においては「心解脱」(心空・小乗)から「慧解脱」(法空・大乗)への
発展的展開が認められます。
この両義次第の因縁(即ち「縁起」)を諦めることによって、言う所の最後決定的な
「因縁空」(即ち「縁起空」)を成就し、その究極(フロント)たる『三祇劫空』
(阿耨多羅三藐三菩提・無生法忍)に達するのだと言える。 (一切皆空 / 悉有仏性)
ただ、ここで大事なことを申し添えれば、それが思量底から非思量底(個から超個)
への展開(身心脱落)であろうが、反対に非思量底から思量底(超個から個)への展開
(脱落身心)であろうが、単にパラレルに移行(相転移)するのではなく、(脱落・超越 / 頓悟)
そこには必ず「場」に於ける『断絶』(不連続性・対称性の破れ・場の特異点)が介在して、
いわゆる、プロティヌス流の一元的発出論や発展論の介在する余地がないのである。
( 存在し現成する者の奇蹟 )
・・・・< 不連続(断絶)の連続(持続) / 連続(持続)の不連続(断絶)>・・・・
これが 『神(超個)と人(個)との断絶』 (絶対否定即絶対肯定) と呼ばれるものであり、*
この神と人との断絶(絶望・有限性)を通じて、人は、その存在の“たよりなさ”(無根拠性)や
“あてどなさ”(無限定性)或はその“とりとめのなさ”(無際限性)に責め苛まれ、
希望と絶望との百分比の中を彷徨うと言うきわめて厄介な「白昼の狂気」(煩悩)を生きるはめと
なったのである。 (せつなき者 / あわれなる者 / もののあわれ)
* 『即非即即是』(生死一如 / 生成即消滅)の絶対矛盾的自己同一
したがって、
ここでは、局所対称性の破れ(場の破れ)が、完全対称性への帰還(還元・凍結)であり、
完全対称性の自発的対称性の破れが、局所対称性の成立(場の成立・生成即消滅)
となっている。 (場を介在とする神と人との不可分・不可同・不可逆性)
<「即非即即是」(生成即消滅)の回互的転回 / 転法輪の事態性 / 真空の相転移 >
これらは生成の絶対不可逆性の中にあって、「不連続の連続性」(連続の不連続性)
を保って、今も猶、その「断絶の手」(絶対否定の介在)を緩めてはいないのである。
( 場の特異点 / 特異性 )
・・・この論考、なお触犯(恥の上塗り)するに相似たり。
「開口不得」と言うも「説似一物即不中」と言うも、なお饒舌。 (南無生)