平成18年6月17日(土) ≪ごまめの歯ぎしり≫ 所収
『臨済録』上堂九 「臨済第二句」に云く、
―――「妙解豈無著の問を容れんや、漚和争でか截流の機に負かん」
【 その分別を超えた境地(妙解)には、分別意識上の問題である執着するとか、
しないとかの疑いなど挟む余地は全くない。また相手の根機に応じて起す方便
の知慧(漚和)も、もともと分別意識を超えた妙解から出るのであるから、
超分別的なはたらき(截流の機)にそむくものではない。】
(同上、朝比奈宗源訳 参照)
人、当処に在って佛智見(場の叡智)の開示悟入有るを知らば、
もはや、何を為し何を為さんと思い煩うこと莫れ。
何となれば、この叡智、当所(普遍に渡り、普遍に止まる)に在って、
悉く良知良能(孟子)し給いて、世間(処世)に見聞異同なければなり。
是れ、「見聞覚知非一一」(『碧巌録』第四十則 参照)にして、「只管当為」。
各箇、善く「観世音」(良知)しつつ「観自在」(良能)なるがゆえに
仲尼(孔子)が了見に叶い * 陽明が見処に適う。 **
* 「己(心)の欲する所に従って矩を踰えず」
** 「致良知」(知行合一 / 性理一如)
この論考、もとより儒佛非一(不可同 / 不一)の騒然の種とは言え、
あえて、その「非一一」( 別個に非ず / 一佛乗 )を提示して
その叡智( 真理 / 明徳 / エピステーメ )の所在を問うものとする。
そして、自らもまた「叡智の探求」のみならず、
「真実在」(それ自らに依りて在る者 / I am I.)とは、如何なるものか、
はたして、これは伝達可能(果分可説)なのか、それとも伝達不可能
(果分不可説)なのかを問うべく、今日もまた、「橋のない川」(断絶の岸辺)
を渡らんと思う。
只、ひたすらに、(自らに於いて)
――― 為すべきを為し、為さざるべきを為さざる如くに。 (只管当為)
当為(ゾルレン)とは、他者的(普遍妥当性 / ~すべき)ではない。
それは、何処までも自者的(自己限定的)であり、
何よりも、叡智にもとずく自律自戒性の発露(自己規範)である。
≪ 当必然的自明性(あたりまえ)の現在 ≫
『臨済録』上堂九 「臨済第二句」に云く、
―――「妙解豈無著の問を容れんや、漚和争でか截流の機に負かん」
【 その分別を超えた境地(妙解)には、分別意識上の問題である執着するとか、
しないとかの疑いなど挟む余地は全くない。また相手の根機に応じて起す方便
の知慧(漚和)も、もともと分別意識を超えた妙解から出るのであるから、
超分別的なはたらき(截流の機)にそむくものではない。】
(同上、朝比奈宗源訳 参照)
人、当処に在って佛智見(場の叡智)の開示悟入有るを知らば、
もはや、何を為し何を為さんと思い煩うこと莫れ。
何となれば、この叡智、当所(普遍に渡り、普遍に止まる)に在って、
悉く良知良能(孟子)し給いて、世間(処世)に見聞異同なければなり。
是れ、「見聞覚知非一一」(『碧巌録』第四十則 参照)にして、「只管当為」。
各箇、善く「観世音」(良知)しつつ「観自在」(良能)なるがゆえに
仲尼(孔子)が了見に叶い * 陽明が見処に適う。 **
* 「己(心)の欲する所に従って矩を踰えず」
** 「致良知」(知行合一 / 性理一如)
この論考、もとより儒佛非一(不可同 / 不一)の騒然の種とは言え、
あえて、その「非一一」( 別個に非ず / 一佛乗 )を提示して
その叡智( 真理 / 明徳 / エピステーメ )の所在を問うものとする。
そして、自らもまた「叡智の探求」のみならず、
「真実在」(それ自らに依りて在る者 / I am I.)とは、如何なるものか、
はたして、これは伝達可能(果分可説)なのか、それとも伝達不可能
(果分不可説)なのかを問うべく、今日もまた、「橋のない川」(断絶の岸辺)
を渡らんと思う。
只、ひたすらに、(自らに於いて)
――― 為すべきを為し、為さざるべきを為さざる如くに。 (只管当為)
当為(ゾルレン)とは、他者的(普遍妥当性 / ~すべき)ではない。
それは、何処までも自者的(自己限定的)であり、
何よりも、叡智にもとずく自律自戒性の発露(自己規範)である。
≪ 当必然的自明性(あたりまえ)の現在 ≫