平成18年4月1日(土) ≪彼岸の岸辺≫ 所収
今日は、「エイプリル・フール」。
――― このOyajiに だまされぬようにいたしましょう。
それはそうと、あなたは 「言わぬが花」 (鳴かぬからすの声) を見届けたでしょうか。
寒のもどりとは言え、春爛漫のこの時節に 「彼岸の岸辺」 に立ち得たでしょうか。
かって、私も五里霧中の中にあってなにが真実なのやら、そもそも真実なんて
ものが有るのかどうかさえ疑わしい暗澹たる日々を送ってきました。
今も、さほど変わりばえはしないのだけれど、ただ一つ言えることは、
その五里霧中(暗中模索)の暗澹たる日々のなかにあって、ある日、忽然と
『五里外に龍潭在り』 と、まぎれもない 『彼岸の岸辺』 に立ち到ったのです。
以来、私はこの現場のことを 「慮外の事」 (意識外の事態・思いの外) と呼んで、
みずからの自戒としてきたのです。 (決して、ダマサレてはいけないよと)
ではいったい、このわたしは誰にだまされてきたのでしょう。
そうなんです、このわたしは見事に自らの 「五里」 (語理・思い) にだまされてきたのです。
「自己欺瞞」 という巧妙な 「ダマシ」 (誤魔化し・思枠・人惑) に、
言語ゲームという、それはそれは巧みな 「意識的事態」 (わたしたちは、これを「現実」
と呼んでいるのですが) にみずからダマサレ、囚われてしまったのです。 (『牢主』現成 )
きょうは、人をだますにも、自分をだますにも都合の良い日です。
大いに、だましだまされて “訳わかんない” となりましょう。
最後に、この一連の事態に関連して適切と思われる事例を引いて、この章を
終わる事とします。
南泉、因みに趙州問う、「如何なるか是れ道」。
泉曰く、「平常心是れ道」。
州云く、「還って趣向すべきや」。
泉曰く、「向わんと擬すれば即ち乖く」。
州云く、「擬せずんば、争でか是れ道なることを知らん」。
泉曰く、「道は知にも属せず、不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。
若し真に不疑の道に達せば、猶お太虚の廓然として洞豁なるが如し。
豈に強いて是非す可けんや」。
州、言下に頓悟す。
(『無門関』十九平常是道 参照)
今日は、「エイプリル・フール」。
――― このOyajiに だまされぬようにいたしましょう。
それはそうと、あなたは 「言わぬが花」 (鳴かぬからすの声) を見届けたでしょうか。
寒のもどりとは言え、春爛漫のこの時節に 「彼岸の岸辺」 に立ち得たでしょうか。
かって、私も五里霧中の中にあってなにが真実なのやら、そもそも真実なんて
ものが有るのかどうかさえ疑わしい暗澹たる日々を送ってきました。
今も、さほど変わりばえはしないのだけれど、ただ一つ言えることは、
その五里霧中(暗中模索)の暗澹たる日々のなかにあって、ある日、忽然と
『五里外に龍潭在り』 と、まぎれもない 『彼岸の岸辺』 に立ち到ったのです。
以来、私はこの現場のことを 「慮外の事」 (意識外の事態・思いの外) と呼んで、
みずからの自戒としてきたのです。 (決して、ダマサレてはいけないよと)
ではいったい、このわたしは誰にだまされてきたのでしょう。
そうなんです、このわたしは見事に自らの 「五里」 (語理・思い) にだまされてきたのです。
「自己欺瞞」 という巧妙な 「ダマシ」 (誤魔化し・思枠・人惑) に、
言語ゲームという、それはそれは巧みな 「意識的事態」 (わたしたちは、これを「現実」
と呼んでいるのですが) にみずからダマサレ、囚われてしまったのです。 (『牢主』現成 )
きょうは、人をだますにも、自分をだますにも都合の良い日です。
大いに、だましだまされて “訳わかんない” となりましょう。
最後に、この一連の事態に関連して適切と思われる事例を引いて、この章を
終わる事とします。
南泉、因みに趙州問う、「如何なるか是れ道」。
泉曰く、「平常心是れ道」。
州云く、「還って趣向すべきや」。
泉曰く、「向わんと擬すれば即ち乖く」。
州云く、「擬せずんば、争でか是れ道なることを知らん」。
泉曰く、「道は知にも属せず、不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。
若し真に不疑の道に達せば、猶お太虚の廓然として洞豁なるが如し。
豈に強いて是非す可けんや」。
州、言下に頓悟す。
(『無門関』十九平常是道 参照)