20160725
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本日の何だか気になるキーワード
1 ロシア選手のリオ五輪出場、競技団体に委ねる (IOC)
2 5年半ぶり黒字 16年上半期、原油安が影響(貿易収支)
3 南シナ海で共同声明出せず 中国が事前外交 (ASEAN)
4 地球で気温観測が始まってから最も暑い日記録 54度(クウェートのミトリーバ)
5 海水浴場に落雷 4人搬送、1人が一時心肺停止(沖縄 美々ビーチいとまん)
6 町の住民たちが町長を銃殺(メキシコ南東部のサン・ミゲル・チャムラ)
7 「バイカーの聖地」走って恩返し ハーレー300台(熊本県阿蘇市)
8 難民申請の男、なた振り回し3人死傷(ドイツ南部ロイトリンゲン)
9 強力な爆発 1人が死亡、少なくとも12人が負傷(ドイツ南部アンスバッハ)
10 3日ぶり急反落、「ポケモンGO」による業績予想の修正を行わず、嫌気される(任天堂)
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「ペレ 伝説の誕生」は泣きました
小学低学年の息子連れのお父さんも、
ず~っとすすり泣いていました。
6回映画を見ると、7回目は無料です。
今回はゼロ円で感動作が観れました。
お気楽ゼロ円生活も、
元手はかかっているのです。
過去の土台があってこそ今がある。
いつも、観る映画は友人のチョイスです。
彼女に丸投げして外れた試しがありません。
話題作は漏れなく観ていますから、
いつでも的確なアドバイスをしてくれます。
とにかく楽しみ。
私は映画館に着くまで
自分が何を観るのか知りませんでした。
(こんな調子)
題名を聞いて、
「あのサッカーの?」
サッカーに興味のない私でも名前だけは聞いたことがあるわ。
20年以上前は、
サッカーやハンドボールをやる子は不良系だと思っていました。
ガラが悪く乱暴でマナーの悪い子もいましたから。
(独断と偏見と思い込み、ごめんなさい。反省々々。今は、そんな風には思っていませんからご容赦を。ペレ達も、盗みなどを働いて悪ガキだった。生活環境のなせるわざ。)
ハイソな友だちがアメリカに住むようになって、
子どもにサッカーをやらせていると聞いてからは、
私の認識も変わりました。
世界的に、野球よりも熱狂されるスポーツなんだ、と。
テレビでサッカーの試合を観ないわけではありませんが、
正直、ファンがなんであんなにトチ狂っているのか理解不能です。
(ごめんなさい。狂える人は幸せです。)
ブラジルでは国を挙げて熱狂してますね。
貧しさから抜け出す手っ取り早い手段の一つでもあったんでしょう。
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「ペレ」
ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AC
ペレ (Pele) こと、エジソン・アランテス・ド・ナシメント(Edson Arantes do Nascimento , 1940年10月23日 - )は、ブラジルの元サッカー選手。アフリカ系ブラジル人。
サッカーブラジル代表のエースとして3度のFIFAワールドカップ優勝。15歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働22年間で通算1363試合に出場し1281得点を記録したその実績から「サッカーの王様(英語: The King of football、ポルトガル語: O Rei do Futebol)、あるいは「20世紀最高のサッカー選手」と評され、多くのサッカー選手、サッカーファンから「サッカー史上最高の選手の一人」と見做されている選手である。
生い立ち
ブラジル南東部のミナスジェライス州トレス・コラソンエスで生まれる。出生と同じ時期に町に電気が敷設されたことから、発明王のトーマス・エジソンにちなんで「エドソン (Edson)」と名付けられた。しかしペレの出生証明書には「エジソン (Edison)」と表記されており、この誤表記は現在も訂正されていない。
父親のジョアン・ラモス・ド・ナシメント(通称ドンジーニョ(英語版))はサッカー選手でポジションはセンターフォワードを務めていた。180cm以上ある長身を生かし1試合にヘディングだけで5得点を決めたこともあるヘディングの名手であり、ミナスジェライス州の州都ベロオリゾンテを本拠地とする強豪クラブのアトレチコ・ミネイロに所属していたこともあったが膝を痛めて退団。その後は小規模なクラブに所属し低い給与でプレーするなどサッカー選手としての成功とは無縁の人生だった。
1944年にサンパウロ州のバウルのサッカークラブに移籍したことを契機に家族でバウルへ引越し、選手としてプレーを続けたが後に膝の故障が基で現役を引退した。これにより収入が途絶え生活に困窮したが、ペレはドンジーニョの再就職先が見つかるまでの間、靴磨きの仕事で家計を助けていた。母親は厳格な人物でペレに対し経済的に不安定なサッカー選手ではなく高い教育を受け真っ当な職業に就くように厳しく躾けていた。ペレは当初は飛行機の操縦士になることを夢見ていたが、やがて父と同じサッカー選手を志すようになり、母の目を盗んで父からサッカーに必要な技術や心構えを学んでいった。
「ペレ」の愛称は父親の所属していたサッカークラブ、ヴァスコ・デ・サンロレンソのGKの「ビレ (Bile) 」のファンであったことに由来している。当時のペレは幼かったことや、ミナス・ジェライス訛りもあって「B」の発音が出来ず「P」と発音していた。いつしかクラスメイトから自身も「Pele」と呼ばれるようになったが、本人は少年時代はこの呼び名を好んでおらず、「エドソン」と呼ばれることを望んでいた。そのため、時にはペレと呼んだ友人を殴り2日間の停学処分を受けた。 またペレの愛称が定着するまでは父親の愛称である「ドンジーニョの息子」、家族からは「ジッコ」と呼ばれていた。
1950年、ペレが9歳の時に地元ブラジルで1950 FIFAワールドカップが開催された。優勝候補の本命と目されていた同国は1次リーグのスイス戦を引き分けた以外は無敗で勝ち上がり、最終戦のウルグアイ戦を迎えていたが、最終戦を前にブラジルはウルグアイに対し勝点でも得失点差でも上回っており、この試合で引分けに終わっても優勝が決まる状況だった。同年7月16日のウルグアイ戦当日はペレの家にブラジルの勝利を祝おうと父の友人達が大勢訪れパーティを開きラジオの実況に聞き入っていたが、幼かったペレは大人と一緒にラジオの実況に聞き入るより外で友人達とサッカーをして遊ぶことに夢中になっていた。そしてブラジルが終了間際に失点し1-2で敗れ優勝を逃すと(マラカナンの悲劇)家中が深い悲しみに包まれ、パウルの街全体も静まりかえった。ペレはこの光景にショックを受けたものの、悲しみにくれる父を励まそうと
悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから。
ペレ
と約束したという。
10代になると、バウル市の内外の複数のクラブを渡り歩き、2から3チームを掛け持ちしてプレーをするほどだったが、学業の方は疎かになり、母の意向に反して落第生になっていた。1954年に地元のバウルACが下部組織(通称バキーニョ)を創設することに伴い、同チームに入団。そこで父の古くからの友人であり元ブラジル代表選手のヴァウデマール・デ・ブリトに出会い指導を受けることになった。ヴァウデマールはペレの才能に着目し、体のあらゆる部位を使ったボールコントロールの重要性、試合の流れを読むコツ、ボールのない所(オフ・ザ・ボール)での動きなどを厳しく教え、選手として成長する上で父と同様に影響を与えることになった。ヴァウデマールは他のクラブの指導をすることになりバキーニョを去っていったが、その後も連絡を取り合い15歳の時に両親を説得してサントスFCへの入団を取り持った。
クラブ経歴
サントスFC
プロデビュー
1956年にサントスに入団。しかし体重が60kgに満たない華奢な体躯であったこともあって直ぐにトップチームでプレーすることは叶わずリザーブチームやユースチームでトレーニングを積むことになった。月給6000クルゼイロで仮契約を結び、それまで生活していたバウルを離れてクラブの合宿所での生活に入った。数ヶ月後、同年9月7日のコリンチャンスとの親善試合でデビューを果たし(試合は7-1でサントスの勝利)この試合で初得点を決めた。国内のリーグ戦でFWのヴァスコンセロスが骨折し戦列を離れたことをきっかけに出場機会を得るようになった。ヴァスコンセロスはペレの入団以来、先輩として友人として親しく接していたが、この怪我からの復帰後も以前のようなプレーを取り戻す事は出来ず、他のクラブへ移籍した。1957年のサンパウロ州選手権では得点王となり、同年4月8日に正式契約を結んだ。
1958年には同じくFWを務めていたエマヌエレ・デル・ヴェッキオが欧州のクラブに移籍したことでポジションを不動のものとし、サンパウロ州選手権では38試合に出場し58得点を決め2年連続得点王を獲得すると共に優勝に貢献した。同年にはジト、ペペ、ジウマールらと共にブラジル代表としてワールドカップに出場し初優勝に貢献。ブラジル代表での活躍もあってクラブには世界中から親善試合のオファーが殺到し、定期的に世界ツアーを行うようになった。サントスFCは収容人数の少ないスタジアムしか保有していなかったことから、ブラジル国内の公式戦の他にも毎年のように世界中に遠征して親善試合を行い、必要な収入を確保しなければならなかった。ペレはそれらの全ての試合で奇跡を起こすことを期待されていたが、1959年に行われた最初の欧州ツアーは6週間に22試合をこなす過密日程だった。
また、クラブでのプレーと平行して兵役の義務を負わなければならなかった。ペレは「ブラジル代表として国の為に戦ったのだから再び国に仕える義務はない」と主張したが、医学的に正当な理由がない限り義務が免除されることは許されず。サントスの沿岸防衛部隊に配属され同年11月には軍選抜チームに選ばれ南米軍人選手権に出場した。
同年にはサントス、ブラジル代表、サンパウロ選抜、兵役で配属された沿岸防衛部隊のチーム、そして軍選抜の合計5チームの選手として年間通算で103試合に出場。24時間に2試合に出場することが9回ほどあり、時には48時間に3試合に出場するなど、多忙な日々を送った。
(中略)
1958 FIFAワールドカップ
サンパウロ州選手権2年連続得点王の実績もあって1958年のスウェーデン大会の代表メンバーに招集され、背番号は10番を与えられた。大会直前のテストマッチで膝の故障もあってグループリーグの2試合を欠場したが、第3戦のソビエト連邦戦でワールドカップ初出場を果たした。なお17歳でのワールドカップ出場は1982年のワールドカップ・スペイン大会で北アイルランドのノーマン・ホワイトサイドによって塗り替えられるまで史上最年少記録であった。
準々決勝のウェールズ戦にも先発出場を果たすと、66分にペナルティエリア内からシュートを決め、ワールドカップ史上最年少となる17歳と239日での得点を記録。続く準決勝のフランス戦では52分、64分、75分と立て続けに得点を決めハットトリックの活躍を見せた。
決勝のスウェーデン戦では、55分に浮き球で相手DFを交わしてからボレーシュート決めて追加点、終了間際にはマリオ・ザガロとのパス交換から駄目押しとなるヘディングシュートを決め5-2の勝利に貢献。大会通算6得点の活躍で同国にワールドカップ初優勝をもたらした。なお、この試合の55分にペナルティエリア内で相手選手のベングト・グスタフソン (en:Bengt Gustavsson) の頭上にボールを浮かして置き去りにしてから決めたボレーシュートは全キャリアの中でもベストゴールのひとつだったと語っている。この優勝の後、ペレは世界中の新聞や雑誌の表紙を飾り「新たなキングの誕生」と称された。
なおこの大会でペレは「背番号10」でプレーし、以降のサッカー界で背番号10番はエースナンバーと見なされるようになったが、これは大会当時、チーム内の抽選で割り振られたという全くの偶然から生まれたものであった。
(以下略)
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映画では、
ペレの幼少時代から、1958 FIFAワールドカップで大活躍するところまでを、
感動的に描きあげています。
サッカーの素質のあるペレでも、
楽々と「サッカーの王様」の地位につけたわけではありません。
数々の試練を乗り越えるパワーがあったわけですね。
そしてブラジルをサッカー王国へと変貌させました。
「ペレ 伝説の誕生」は、
2016年7月8日(金)より、全国でロードショーされています。
(観客はまばらでしたが、お勧めです。学校行事の映画鑑賞会の候補に良いですよ。)
スタッフ
監督 ジェフ・ジンバリスト 、 マイケル・ジンバリスト
脚本 ジェフ・ジンバリスト 、 マイケル・ジンバリスト
エグゼクティブプロデューサー ペレ
製作 ブライアン・グレイザー
撮影 マシュー・リバティック
美術監督 ドミニック・ワトキンス
音楽 A・R・ラフマーン
編集 ルイス・キャルバラ 、 グレン・スキャントベリー
キャスティング メアリ・ヴァーニュー
キャスト
Pele ケヴィン・デ・バウラ
Jose ディエゴ・ボネータ
George Raynor コルム・ミーニイ
Dondinho セウ・ジョルジ
Feola ヴィンセント・ドノフリオ
ロドリゴ・サントロ
映画を見た後は、いつもランチに行きます。
「次はどこへ行こうか?」と、お店選びも楽しみです。
今回は、市役所13Fの展望レストランで美味しいイタリアンを頂きました。
楽しい日々、感謝々々でございます。
世界では悲惨な事件が多発しているのに、
こんなに平和に暮らせるのは、
何だか申し訳ないような気がします。
日本ブログ村のランキングをみると、
ペットの犬猫関係がトップを占めています。
日本って、本当に平和だなあ。
これがいつまでも続きますように!!!
それにしても、ポケモンGOはいつまで続くんだろう?
(流行に乗ってやってみようかな?それともスルー?迷っています。)
P.S.
と言っている矢先、
日本でも悲惨な事件が起きました。
たくさんの障害者が犠牲になりました。
大ショックです。
世の中、どんどん貧富の差・上下の差が大きくなっています。
平気で自分より弱者を切り捨てる思想が広がっているのは悲しいことです。
(白人優性思想や若者の年寄蔑視なども同じ事。)
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20160725 「ペレ 伝説の誕生」は泣きました
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最後までお読みくださいまして
ありがとうございます。
感謝いっぱいでございます。
「アオサンだーjp」
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2014年(平成26年) http://aosan.daa.jp/?page_id=183
2015年(平成27年) http://aosan.daa.jp/?page_id=1877
2016年(平成28年) http://aosan.daa.jp/?page_id=3347
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