• 祝! 「ゴジラ-1.0」アカデミー視覚効果賞受賞!!

 

 

 

 基本的に「ゴジラ-1.0」に対して、無視乃至軽視の構えであった糞マスコミ共も、流石にスルーは出来なくなったか、幾許か報じられている通り、昨年公開(且つ、今も上映中)の実写邦画「ゴジラー1.0」が、アカデミー賞(*1)の視覚効果賞を受賞。黄金のオスカー像を山崎監督らが受理した。


 山崎監督自身が授賞式に臨んでおり(*2)、受賞直後の(勿論、予め用意した)スピーチでは、監督自身が「スターウオーズ」や「未知との遭遇」を見た衝撃からこの道に入ったことや、はじめの頃は遙か高みにあって無縁とも思えたアカデミー賞にノミネートされて、「ロッキー」の主人公・ロッキー・バルボアの心境であったと当時の心境を語り、そんな自分がアカデミー賞を受賞した、と言うことは、「ハリウッド以外の、ハリウッドから遠い所のVFXクリエイターにも、アカデミー賞受賞の機会があることが、実証された。」と、「ハリウッド以外のVFXクリエイターたち」に呼びかけ、「We Did IT! (やったぜ!)」で締める、流暢とは言いかねようし、途中つっかえたりもしているが、実に美事なスピーチを見せて、聴かせてくれた。

  • <注記>
  • (*1) 日本アカデミー賞ならぬ、米国の本家本元のアカデミー賞。
  •  日本アカデミー賞での「ゴジラ-1.0」は、作品賞や主演男優賞など、8つの賞を取って「総なめ」状態としている。 
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  • (*2) なんてことを態々書くのは、今回もう一つのアカデミー賞である長編アニメ賞を受賞した「君達はどう生きるか」の監督たる宮崎駿は、授賞式に出席せず、代理人の受賞となった、から。 


 

  • (1)「巨匠」山崎貴監督

 山崎貴監督は、1964年長野県生まれだそうだから、今年還暦の60才ってことになる。今年同じくアカデミー賞(長編アニメ賞)に輝いた宮崎駿監督が80代だから、大凡親子程も年が離れている、事になる。


 映画監督というと、私(ZERO)なんぞのイメージは、先ず黒澤明監督(*1)であり、一言で言うと「完璧主義者のカリスマ(独裁者)」であり、黒めがねで憮然としているってイメージが浮かぶ。その表情のまま、スタッフや役者を怒鳴りつけている、ってイメージ。「映画監督」に対するある種ステレオタイプではあろうが、そう言うイメージなんだから、仕方が無い。宮崎駿なんて人もこれに近いらしい。

 だが、どうも山崎貴監督は、大分違う、らしい。

 

 

 

 

 眼鏡と髭って言う「パーツ」は宮崎駿と相通じるモノがあるが、山崎貴監督の表情というと、アカデミー賞授賞式にも見せた「はにかんだ様な微笑み」が浮かぶ。「一寸困った表情」と言っても良さそうだ。「手前ぇら、俺の言う通り/イメージ通りに動け!何故動かん!!」と怒鳴りつける山崎貴監督ってのは、一寸想像しかねて、「ウーン、困ったねぇ。じゃあ、今度はこうしてみようか?」とか言ってそうな・・・飽くまでも、イメージだが。


 元々は、映画監督ではなく、特技監督とか特撮監督とか呼ばれるVFXディレクターを目指して映画界に入り、VFXディレクターと兼任で監督もやれば、脚本も手がける。その監督作品の大半で脚本を書き、全部でVFXディレクターって人で、「裏方の苦労が良く判る」どころか、「裏方やりたくて映画界に入ったら、監督もやる様になって表に出て来た」人。あげくの果てにその「裏方であるVFX」でアカデミー賞VFX賞(視覚効果賞)受賞なんだから、「VFX監督 山崎貴」で一本の映画に出来そうだ(*2)。キャッチコピーは、諦めなければ、勝てる。(*3)か。

 今回、ゴジラ-1.0のご縁で山崎貴監督のことを知り、Youtubeでインタビュー動画も見た。X(旧ツイッター)でもコメントされている様で、そちらの方はトンと無縁だが、Youtubeの動画とか見ると・・・先ず「一級品の笑顔」と言うべきでは無かろうか。私(ZERO)は「笑顔評論家」としては、大したモノでは無いだろうが、「ダライ・ラマに匹敵する」と(勝手に)評価している。
 その「はにかんだ様な笑顔」に代表される人当たりの良さ&人の良さは、種々のエピソードともなっている様だ。例えば、裸の王様になることは避けよう(*4)」って事で、「誰でも自由に発言出来る職場」を目指しているそうだ。その霊験あらたかで、「失礼な奴ばっかりになって」居るそうで、「(山崎)監督のプロビ(*5)、一寸ダサかったんで、変えました。」とか平気で言うそうだ。これに対して山崎貴監督は、「うん、そうだね。だけどね・・・言い方。」と、窘めるんだとか。

 窘めはするが、否定はしない、って所が、ポイントだろうな。

 私(ZERO)はVFXだのCGだのを「自分で作る」点では全く無縁な人間だが、この話をインタビューで聞いたとき、「山崎貴監督の下ならば、VFX/CGの仕事をしたい!」と思ったことを告白しておこう。

 これは、ある種の山崎貴監督の「カリスマ性」であり、黒澤明とも宮崎駿とも異なろうが、山崎貴監督を「巨匠」たらしめているのではないか、と、私(ZERO)は思っている。
 
 山崎貴監督というと、「実写版ヤマト」こと「Space Battleship Yamato」についても触れるべきだろう。キムタク=木村拓哉主演で、TBSの60周年記念かなんかで作られた「アニメ 宇宙戦艦ヤマトの実写版」。どうも、世間一般では評価が低く、「山崎貴監督の黒歴史の一つ」に数えられている、らしいが・・・老舗の「宇宙戦艦ヤマトファン」であり、原作の松本零士(*6)ファンを自認する私(ZERO)も、この映画の公開当時は「キムタクが、古代進かよ!」とバカにして、劇場へ見には行かなかった(*7)。


 だが、ひょんな事でDVDで見て・・・ボロ泣き。以降、10回以上視聴しているが、毎回ボロ泣きなので、他の人と一緒には、一寸視聴出来ない。本作は、音楽も「ゴジラ-1,0」と同じ佐藤直紀で、この音楽がまた良い。
 脚本は珍しく山崎貴監督自身では無いが、「相当口出ししているのではないか」との憶測もある。「秋葉神社の御守り」なんてアイテムは、滅多に出て来るモノではあるまい。
 
 時は、2199年の未来。所は、14万8千光年の彼方。ガミラス本土上陸戦の真っ只中で、秋葉神社の御守りが炸裂する!!!!(泣)

 閑話休題(それはさておき)。

 「ゴジラ-1.0」で泣かされる前に、「実写版ヤマト」で再三泣かされたぐらいだから、山崎貴監督は、私(ZERO)の「泣きの壺」を心得ている、モノと見える。
 だとすると、未だ見ていない「アルキメデス大戦」とか「永遠の0」とかも、見た方が良いのかなぁ、等と、思い始めている。
 

  • <注記>
  • (*1) イヤ、喩えが古いって事は承知だ。何しろこちとらぁ、老舗の「映画ファン」なのでね。主として、戦争映画と西部劇のファンだが。 
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  • (*2) 売れるかなぁ・・・あと、どうやってゴジラ出そう? 
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  • (*3) ゴジラ-1.0の「生きて、抗え。」を捩ってみたが、今一つかな。 
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  • (*4) この時点で、黒澤明張りの「カリスマ監督」とは「一線を画している」訳だが。 
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  • (*5) 恐らくは、「プロビジョン」の略で、アニメの「絵コンテ」に対応するVFXの「概略動画」とも言うべきモノ。例えば、簡易な白子のゴジラモデルが、ゴジラの動きをして見せる動画で、監督の「作画意図」を伝えるもの。
  •  まあ、映画のドラフト版、だな。 
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  • (*6) 種々のトラブルがあった事は承知しているが、松本零士を師の一人と仰ぎ、且つ宇宙戦艦ヤマトファンでもある私(ZERO)としては、やはり「宇宙戦艦ヤマト」の原作者は、松本零士をおいて、他には居ない。 
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  • (*7) まあ、「映画館で、映画を見る」なんて事自体、今回の「ゴジラ-1.0」で随分久しぶりなのだが。その前見たのは、「Cross of Iron 戦争のはらわた デジタル・リマスター版」かなぁ。 


 

  • (2)「足らぬ」、「足らぬ」は、「工夫が足らぬ」。

 

 

 章題にしたのは、実は大東亜戦争中の標語だ。言いたいことは、判るよな。


 何しろ大東亜戦争ってのは、総力戦たる第2次世界大戦の一環で、主たる相手は「終戦時には世界のGDPの半分を生産していた」超巨大生産国家アメリカ合衆国。しかも、補給重視の情報重視で、攻撃しかけてくるときは「見積もられる最大の敵兵力(我が方だな)の3倍」を投入してくる。兵力・物量では、大抵の場合我が方が劣勢だ。


 つまり、「兵力が足らぬ」「弾薬が足らぬ」「燃料が足らぬ」「食料が足らぬ」等々の「足らぬ」を、「工夫で何とかしろ」って標語であり、ある種の「精神論のススメ」でもある。

 そんな、精神論頼みだから、負けるンだぁ!!ってのは、大日本帝国及び帝国陸海軍に対する批判として良く耳にするところだが、「だから、こうしろ/こうすれば良かった」と続くことは滅多に無い。「工夫で何とかしろ」ってのがある種「無責任」と言うことは認めるが、「工夫を凝らさなければ仕方が無い」状況にあった大日本帝国及び帝国陸海軍の状況は、相応に理解すべきであろう。

 「そういうこと言うんだったら、代案出して下さいよ。代案。」by「学者」野田さん

 大東亜戦争中の標語なんぞ持ち出したのは、無論、今回アカデミー賞視覚効果賞(VFX賞)に美事「ゴジラ-1.0」が輝いたから、だが・・・有り体に言ってVFXってヤツは、戦争と同様に「物量が(相当に)モノを言う世界」らしい。CGを描くクリエイターの数とか、各種処理をするPCの性能と数とかで。で、その「VFX的物量」でアメリカ=ハリウッドは「断トツの首位」に君臨している。
 その「断トツの首位の物量」は今も変わらないし、今後も当面変わりそうにない。対して我らが山崎貴監督と、そのVFXチーム「白組」は、「工夫を凝らした」のである。


 その一端は(恐らく、全てではないだろう。)、Youtube動画として公開され、結構な反響を呼んでいるのだが、大きく言って二点に絞られ様。一つは「組織のスリム化」であり、もう一つは「舞台装置の簡素化」である。 

 

 

 「組織のスリム化」は、比較的話が簡単だ。何しろ「山崎貴監督は、VFXディレクターを兼任している」で、大半の説明は済む。動画にもある通り、これに加えて「白組自体が35人と割と小所帯であること」、「全作画クリエーターを一つのフロアに集め、山崎監督兼VFXディレクターが直接チェック&指示を出し、試行錯誤のサイクルを極限したこと」などがあげられる。
 
 但し、小所帯にして試行錯誤サイクルを短縮しても、VFXのクオリティを維持・向上したのは、クリエイター各員の矜持というか、職人魂というか、趣味というか、「個人的資質/気質」に依るところ大らしい。


 白組ったら、我が国のVFXクリエイター集団としてはトップクラスだ。それもあって、山崎貴監督自身が初見/初稿で唸る様なクオリティのVFXシーンもあった、そうだ。監督としては「全体を見る」のも仕事だから、或程度のクオリティのVFXシーンに対しては、「これでOKだから、次の仕事にかかって。」って指示を出すことも、あったそうだ。
 だが、現場のVFXクリエイターの方が、納得しない(事もあった)そうで、「何言っているんですか、山崎さん。『ゴジラ』ですよ。世界が待ってるんですよ。コレで『良い』訳、ないじゃないですか。もっとやります。」と、更に入念に作り込むこともあったそうだ。


 お陰で、ハイクオリティなVFXシーンが出来る一方で、「未だ誰も着手していないVFXシーン」なんてのも出て来て、仕方ないから山崎誠監督自身が「CGを勉強し、今回木と草を生やせる様になった。」と、インタビューで答えている。


 「ゴジラ-1.0」屈指の名シーン(断言)である「震電、発進」シーンで、震電の巻き起こすプロペラ後流に靡く草や、再上陸して山間部を進むゴジラの足下の木々は、「山崎貴監督お手植えの草木」であるらしい。


 無論、監督として、VFXディレクターとしての作業と並行しての「山崎貴監督お手植えの草木」である。何とも、シュールというか、微笑ましいというか・・・だがそれが、「組織のスリム化」に貢献したことは、間違いない。

 まあ、山崎貴監督以外には、これが可能な人は少なそうだが。

 「舞台装置の簡素化」は、もう少し話が複雑だ.「同じ舷側のセットをVFXを使って拡張・変貌させ、重巡・高雄も駆逐艦・雪風も、同じセットで撮影した。」というのもその一つではある。
 だが、「単にセットを共通化した」ばかりではない。このセット、「動かない」のである。ハリウッドの大作、例えば「パールハーバー」の撮影に使われた「油圧シリンダを仕込んで大きく傾けられる戦艦アリゾナの前半部セット」の様に、「動く」訳では無い。このセットで、第1次ゴジラ迎撃戦とか、「海神作戦」の様な「大きく揺れ、傾く軍艦の甲板」を再現するため、役者同士が息を合わせて身体を傾けると共に、カメラをクレーンに吊って動かす事で再現した。このクレーンに吊ったカメラも「単に揺すれば良い」訳では無く、「クレーンから吊った振り子運動による揺れ」と、吊った支点を前後に動かす動きの組み合わせでないと、「艦の甲板が揺れている」のを表現出来ない、のだそうな。これは、山崎貴監督の以前の作品「アルキメデス大戦」で取得したノウハウ、だとか。

 即ち、「ゴジラ-1.0」に見られる「舞台装置の簡素化」は、単なるコストカットでは無く、そうしてもクオリティを落とさないノウハウ=工夫の賜である。 

 左様な、従来従前の「アナログ的」(と言うか、「アナクロ的」に近いかも知れない。)な創意工夫を併用しての、「組織のスリム化」&「舞台装置の簡素化」であり、視覚効果(VFX)である。


 さらには、そのVFXを主な背景としての出演者=役者の名演技があればこそ、「ゴジラ-1.0」は「アカデミー賞・視覚効果賞の受賞」という本邦初にして、アジアでも初の快挙を(*1)、なし得たのである。【敢えて断言】
 

  • <注記>
  • (*1) それも、並み居るハリウッド大作を相手にして。
  •  まあ、そのハリウッド大作の半数ぐらいが、「資金をかけたと言うだけの駄作」だった、気もしなくはないが。 


 

  • (3)山崎貴監督の御名を誉む可きかな。

 

 

 更に言えば、岡田斗司夫氏の解説によると、「監督のヴィジョン明確化」って要因がある、らしい。何でも、ハリウッドの大作ってのは、一つのVFXシーンを何種類もの構図で量産し、その中でベストのシーンを選定する、らしい。だから、「映画として公開されないVFXシーン」ってのが、本編の数倍、数十倍作られている、のだそうな。そんな「物量作戦」を取るのは、「どんなシーンがベストか?」を決めるのが、監督個人ではなくて、監督、プロデューサ、その他諸々の多数に依る「合議制」で決める為、らしい。そうすることで「必ず売れる映画にする」って事、らしい。

 対して山崎貴監督のやり方は、「アニメのやり方に近い」そうで、「監督が持っているヴィジョンを、具体化・具現化する」方法。言ってみれば、ハリウッドが「絨毯爆撃で、目標に一発当たれば良い」物量作戦であるのに対し、山崎貴監督は「ピンポイントの精密急降下爆撃で一発必中」を目指す。その「山崎貴監督が狙った一発」が「当たり」ならば、ヒット作になり、売れる。が、「当たりではない」と、ヒット作にはならない、ってこと、らしい。

 無論、「監督に(既に)ヴィジョンがある」のが、大前提であり、それだけ、監督の責任は重い、って事にもなる。
 監督に「ヴィジョンがない」なら、売れる売れない以前の駄作にしかなるまい。
 監督に「明確なヴィジョンがある」且つ「その監督のヴィジョンが、『当たり』である』事が、ヒット作となるためには必要になる。

 山崎貴監督には、多くのヒット作や名作があるモノの、「黒歴史」扱いされる「ヒットしなかった作品」もある。投資家やプロデューサーからすると、「危うい賭けになる監督」って事になるのかも知れない。
 
 だが、その「賭け」に、山崎貴監督は「ゴジラー1.0」では、勝った。
 それも、大勝ちだ。アカデミー賞の、それも本邦初にしてアジア初の視覚効果賞。これ以上の「勝ち」ったら、「国内興行収益歴代一位」ぐらいしか、無いだろう。

 山崎貴監督の偉業は、そんな「賭けに対して大勝ちする、こともある」と実証実践して見せたこと、ではなかろうか。

 山崎貴監督自身、アカデミー賞受賞スピーチで述べた通り、「We did it(やったぜ)!!」であり、「ハリウッドから遠く離れたVFXクリエイターにも、アカデミー賞画像効果賞のチャンスがある、と実証された」のである。

 山崎貴の御名を誉むべきかな。