• 人非人の主張-【朝日社説】海自でも参拝 靖国との関係 総点検を


 「人非人(にんぴにん)」ってのは、余り「人口に膾炙しない言葉」であろう。「非人(ひにん)」ってえと多分「差別用語(*1)」って事になるのだろうが、それは「非人」が「穢多(*2)」と共にある種の職業集団(*3)を指すからであろう。「人非人」は、出自や職業とは無関係なのだから、少なくとも「出自や職業による差別では無い」。ある種の思想的傾向を非難する言葉ではあるが、な。他の表現をするならば、「非人道的」というのが近いか。「人」というモノを、今少し「広く」考えての「人道」ではある。
 「決定的・致命的なほどに、人間味に欠ける」と表記すれば、ほぼ「人非人」と同義となろう。

 そんな「差別用語と言われかねない様な、余り人口に膾炙しない言葉」である「人非人」をタイトルにとったのは、私(ZERO)が””差別用語”なてモノに頓着しない=好きなときに”差別用語”を、遠慮無く使う(*4)」と言うのもさることながら、下掲朝日新聞社説を人非人=「決定的・致命的なほどに、人間味に欠ける」と感じたから、である。

  • <注記>
  • (*1) 序でに書けば、私(ZERO)は「差別用語」なる言葉が、大嫌いだ。大凡「差別用語」とされる言葉は、単なる「レッテル貼り」であり、ある種の単純化にして知的怠惰の表明でしかない、と思っている。
  •  「差別用語を使うな!」って主張は、「差別を無くせ!!」って主張と同根の胡散臭さとイヤらしさがプンプンして、敵わない。
  •  有り体に言って、「差別は、差別用語なんか使わなくても出来る」。単純には隠語で言い替えれば良い。
  •  ”差別用語"を無くす」事で「差別を無くせる」と思っているならば、最早気違いのレベルであるし、差別を減らせる」と思っていても「大間抜け」のレベルは免れない。まあ、大抵は、「”自分は、差別なんかしていない”というアピール、乃至アリバイ作り」なのだろうが、実に下らない「格好つけ」であり、良い処、自己陶酔でしかない。
  •  逆に「差別を込めずに、差別用語を使う」事だって、大抵可能だ。「気違い」「百姓」「片目」「非人」等、「差別用語」とされる言葉は多いが、それを禁じることが、自己陶酔の言論統制以外の何かになっているのかね?なってないだろうが。
  •  
  •  フランス人?ああっ、差別用語だぁ。
  •  
  •  このギャグのおかしみは、「差別用語反対」とか抜かしているヤツバラには判るまい。それだけ世の中に対して「損している」ってこと、だぞ。 
  •  
  • (*2) ふざけたことに、ATOKの「えた」では、出て来ない。教育してやれ! 
  •  
  • (*3) 動物の死骸を解体して皮や肉や骨を得る職業で、「死穢(しえ)が多い」から「穢多」となったらしい。 
  •  
  • (*4) 大体、「片目」や「百姓」が「差別用語」ってなんだよ。挙げ句の果てに「片目」の言い換えが「目が不自由」だったりする。NHKがチャールズ・ブロンソン主演の異色西部劇「ホワイト・バッファロー」で”One Eye”を「目が不自由」と訳して字幕にしやぁがったのが、その例だ。
  •  「目が不自由」では全盲と区別が付かないだろうが。多羅尾伴内の「あるときは、片目の運転手」が「あるときは、目の不自由な運転手」では、「全盲の運転手」の様ではないか。 


 

  • (1)【朝日社説】海自でも参拝 靖国との関係 総点検を

社説

(社説)海自でも参拝 靖国との関係 総点検を:朝日新聞デジタル (asahi.com)

2024年2月25日 5時00分

 

終戦記念日に靖国神社に参拝する人たち=2022年8月15日、東京都千代田区、岩下毅撮影

 

【1】 陸上自衛隊に続き海上自衛隊でも、幹部を含む自衛官らによる靖国神社への集団参拝が明らかになった。憲法が定める「政教分離」に抵触するのみならず、旧日本軍と「断絶」していないのではないかと疑われる行動だ。他の部隊でも例はないか、総点検して明らかにする必要がある。

 

【2】 海上自衛隊の幹部候補生学校の卒業生が昨年5月、長期にわたる遠洋練習航海に先立ち、練習艦隊の当時の今野泰樹(やすしげ)司令官らとともに靖国神社に参拝していた。靖国神社の社報には、制服姿で本殿に上がって頭を下げる様子が写真つきで紹介され、練習航海前の参拝は毎年の恒例行事ととれる記述もあった。

 

【3】 酒井良海上幕僚長は記者会見で、卒業生165人の多くが参加したが、東京地区での研修の合間にあった、個人の自由意思による私的参拝だと強調。「部隊としての参拝」や「隊員への参加の強制」を禁じた防衛事務次官通達には反しないとの考えを示した。玉串料も自由意思で集め、まとめて納めたという。

 

【4】 しかし、制服姿での集団参拝は、外形的には組織的な振る舞いにしか見えない。幹部の育成過程の一環に組み込まれた行事のようにもみえ、若い自衛官が本当に個人の自由意思で、参加の有無を判断できるものだろうか。

 

【5】 酒井海幕長は、自由参拝なので記録がなく、問題はないので「調査する方針もない」と述べた。過去にさかのぼって実態をつまびらかにすることなく、なぜそんな判断ができるのか。海自任せにせず、防衛省がきちんと事実関係を確認すべきだ。

 

【6】 陸自で今年1月、陸上幕僚副長がトップを務める航空事故調査委員会のメンバーによる集団参拝が明らかになったばかりである。

 

【7】 靖国神社は戦前、旧陸海軍が共同で管理し、国家主義や軍国主義の精神的支柱となった。東京裁判で戦争責任を問われたA級戦犯14人が合祀(ごうし)されてもいる。もちろん自衛隊員にも「信教の自由」は保障されているが、組織的な参拝となれば、話は別である。

 

【8】 平和憲法の下で再出発したはずの自衛隊内で、過去への反省が風化していないか。この機会に組織全体をみわたしてチェックすべきだ。

 

【9】 木原稔防衛相は先月、部隊参拝を禁じた事務次官通達の見直しに言及した。「通達は50年前のもので、それ以降、信教の自由や政教分離原則に関する最高裁の判例もいくつか出ている」ことを理由に挙げた。その方向性は判然としないが、縛りを緩めるつもりなら論外である。

 

  • (2)自衛隊は、「平和憲法の下で再出発」なぞしていない。その「平和憲法」には、自衛隊に関する記載が一切無く、追記もされていない。QED。

 「自衛隊が発足するよりも先に"平和憲法"があった。」と言うだけで、「自衛隊は、”平和憲法”の範囲外にある/あった。」。

 かかる説・主張を「暴論」と見なす者も多かろう。だが、

 ① 日本国憲法には、自衛隊に対する記載が無い。
 
 ② 自衛隊発足は、日本国憲法発布より後である。


と言う二つの事実・史実を説明するのに、上掲朝日社説が唱えるような、

 (A案) 自衛隊は(日本の軍隊として)、平和憲法の下で再出発した。

のと、

 (B案) 自衛隊の発足&存在は、平和憲法の範囲外である。

ってのでは、一体どちらがより整合性が高く、理に適っているだろうか?

 ③ 一国の憲法には、その国の軍隊に関する記述があるのが通例である。

って「常識論」を更に傍証としても良かろう。当然、私(ZERO)は(B案)を推す。

 大体、(A案)「自衛隊は(日本の軍隊として)、平和憲法の下で再出発した。が正しいのならば、長沼ナイキ訴訟はじめとして数多あった「自衛隊違憲訴訟」も、嘗てはかますびしかった「自衛隊違憲論」も、成立しない/しなかった筈ではないか?
 そんな「自衛隊違憲訴訟」「自衛隊違憲論」が数多あったと言う事実/史実が、少なくとも(A案)「自衛隊は(日本の軍隊として)、平和憲法の下で再出発した。」なる説が「広範に受け入れられ、普遍的な説では無かった事を、立証していよう。
 
 更に言うならば、嘗ては数多あった「自衛隊違憲訴訟」「自衛隊違憲論」の先頭に立ち、旗振っていたのは他ならぬ、朝日新聞ではないか。「少年朝日年鑑」なんて子ども向けの本で、自衛隊の最新兵器(当時)と帝国陸海軍の兵器(当然、第2次大戦中の奴)とを並べて、「こんなに強い自衛隊は、おかしい」って誘導していたことを、私(ZERO)はハッキリと覚えているぞ。

 それを、だ。自衛隊違憲論」に嘗てほどの勢いが無くなり、「自衛隊違憲訴訟」は絶滅危惧種(イヤ、絶滅したかな?)状態となった今頃になって、(A案)「自衛隊は(日本の軍隊として)、平和憲法の下で再出発した。」と、「筈」などと姑息な婉曲表現を使いながらも主張出来てしまうとは、朝日新聞ったら、随分と良い面の皮をしているじゃぁないか。

 だが、まあ、それだけならば、私(ZERO)も「無責任な言論者であり、ジャーナリストとしてもオピニオンリーダーとしても失格だ。」と断定断言するぐらいで、タイトルにした様は「人非人」呼ばわりはしなかったろう。

 「朝日の無責任ぶり」については、先行記事にもしている通り、「慰安婦強制連行報道」から「旧日本軍の毒ガス使用写真」、更には弊ブログ記事には無いが、虚報に基づく「教科書検定問題」、「伊東リツ架空インタビュー記事」「珊瑚毀損自作自演写真」まで、幾らも前例先例があって、こちとら慣れっこだ。

 今回そんな「無責任なのはデフォルト状態」の朝日を「人非人」と非難するのは、「自衛隊/自衛官は、堂々と靖国神社に参拝するなとする、上掲朝日社説の主張故である。その主張に「人の心を持たぬ、人外の化生」と感じるから、である。

 

  • (3)人外の化生(じんがいのけしょう)

 チョイと哲学的な問いになるが・・・「人を、人たらしめているモノは、何だろうか?」

 「哲学的な問い」だけに、幾通りも「答え」はありそうだ。生物学的な人・ホモサピエンスとしての定義も出来ようし、極端には「正解はない」と断定断言しても、良さそうだ。
 だが、一つの考え方として、「死者を悼むこと」というのが、挙げられよう。同胞・同族の死を「悼む」と言うのは、一寸禽獣や動物には、在りそうに無い(*1)。人間だけの特徴、と考えられる。
 
 言うまでも無かろうが、靖国神社は、我が国に身命を捧げられた方々を祀るところ。その中に、先の大東亜戦争に倒れた英霊方も、大東亜戦争敗戦直後に「刑死」させられた方々も、戦後その職に殉じた自衛官たちも含まれる。現職・現役の自衛官からすれば、その大半は「我が国防衛の任」を共有する先輩方・先人である。

 「我が国防衛の任」を共有する先輩方・先人を、悼み、祀る事を否定することは、「非人道的」としては言葉が過ぎるかも知れないが(*2)、「人間味」か「人としての情」か「人間として根源的な何か」か、或いはその全てを、「欠いている」と、思われてならない。

 故に、言うのである。上掲朝日社説は、「人非人の主張」だ、と。

 百歩(と言うか、感覚的には「一万歩」、ぐらいだな。)譲って、かかる主張を外国人、例えばWall Street Journal(*3)の社説(って、あるのかな?)だったとしたら、私(ZERO)も「人非人」とまでは言わないだろう(*4)。「戦犯憎し(転じて、日本憎し)」に凝り固まって、「墓を暴いて遺骨の破壊」ぐらいは平気でやるような某国人でも同様だ。だが、上掲社説は日本の新聞社である朝日新聞の社説であり、それを書いたのは多分、日本人だ(*5)

 諸外国人ならいざ知らず、「死んでしまえば仏様」ってのが、「日本人としては普通の感覚」だろう。

 そんな、日本人である筈の朝日新聞が、上掲朝日社説の通り、「自衛隊・自衛官は、堂々と靖国神社を参拝するな」と主張するからこそ、言うのである。「人非人」と。「人に似るが、人にあらざるモノ」と。

 あ、もう一つ可能性があったか。

 「朝日新聞記者もデスクも、新聞社を挙げて、日本人ではない。」

 どうも「人非人である」よりは、こっちの方が可能性は高そうだな。

  • <注記>
  • (*1) 「同種の死骸を喰う」と言うのは、ゴキブリなど幾つも事例があるようだが、コレを「悼んでいる」とは認め難い。
  •  ある種の鳥は、捕獲され鳥籠に閉じ込められた仲間に毒入りの実を届けて「自殺幇助」を図るそうだが(アシモフ博士の雑学に、あった・・・気がする。)、コレも「死者を悼む」のとは異なろう。 
  •  
  • (*2) イヤ、「過ぎる」のかな?「至当」と言うべきでは無いか? 
  •  
  • (*3) 肥田美佐子はじめとする日本人・日系人女性記者に依る反日・侮日の与太記事連発していたことは、忘じがたい。まあ、格好の弊ブログネタになったし、その後は改善した、らしいが。 
  •  
  • (*4) 「毛唐」程度で、済ますだろう。 
  •  
  • (*5) 余り自信は無い推測だ。