• 馬鹿げた偏見-【朝日社説】研修に教育勅語 広島市長は認識改めよ


 以前にも記事にしたが、私(ZERO)は教育勅語を「我が国の宝」だと考えて居る。左様に考える理由・根拠を知ろうとするならば、「先ず、教育勅語を読め。」とも勧めている。
 
 であるので、先ずは下掲する教育勅語原文を読んでから、後傾する朝日社説を一読することをお勧めする。現代では「読みが判りにくい」部分もあるとは思うが、そこは表意文字の有り難さで「大意を汲んで読みすすめる」事で、読めるし、理解出来るだろう。 
 尚、段落分けだけは、私(ZERO)が読みやすくするために付けたモノだ。そこに「私(ZERO)の解釈」が入りうる事は、明記しておこう。

  • (1)教育勅語(全文)

 朕惟フニ、我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。

 

 我カ臣民、克ク忠ニ、克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ、世々厥ノ美ヲ濟セルハ、此レ我カ國體ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス。

 

 爾臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信シ、恭儉己レヲ持シ、博愛衆ニ及ホシ、學ヲ修メ、業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ、徳器ヲ成就シ、進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ、國法ニ遵ヒ、一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。

 

 是ノ如キハ、獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。

 

 斯ノ道ハ、實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所。之ヲ古今ニ通シテ謬ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖ラス、朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ、咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ。

 

明治二十三年十月三十日

御名御璽


  • (2)【朝日社説】研修に教育勅語 広島市長は認識改めよ

研修に教育勅語 広島市長は認識改めよ

 

 

https://www.asahi.com/articles/DA3S15820770.html?iref=pc_rensai_long_16_article

 

2023年12月20日 5時00分

 

松井一実・広島市長が新人職員研修で使った資料。教育勅語の一節を引用している=12月11日、広島市中区、魚住あかり撮影

 

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 教育勅語は戦後まもなく、日本国憲法の基本原則と相いれないとして、国会で排除・失効が決議された。公務にたずさわる者が肯定的に評価・引用することは許されない。松井一実・広島市長は認識を改めるべきだ。

 

 広島市の新任職員研修の中で、松井氏が教育勅語の一部を使ってきた件である。市長就任の翌2012年から今年まで毎年春、勅語が「博愛」や「公益」の尊さを説いた部分を研修資料に引用し、講話を続けてきたという。

 

 松井氏は「教育勅語を再評価すべきとは考えていないが、評価してもよい部分があったという事実を知っておくことは大切。今後も使用を続ける」という。きのうの定例会見でも姿勢を変えず、「民主主義的な発想の言葉が並んでいる」とも述べた。

 

 教育勅語の本質から目をそらす、危うい考えと言うほかない。

 

 教育勅語とは、「朕」たる明治天皇が「臣民」たる国民に対し、天皇と国家への忠誠を説いたものだ。松井氏が引用した箇所に続いて「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以(もっ)て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」(いざという時には一身を捧げて皇室国家のために尽くせ)とあり、先の大戦では国民を戦争へ動員する思想統制に利用された。

 

 国民主権と基本的人権の尊重、そして平和主義を定めた日本国憲法が施行された翌1948年、衆院が勅語の排除を、参院も失効を決議したのは、当然の流れだった。

 

 松井氏は、長崎とともに被爆の惨禍に見舞われ、原爆死没者に過ちを繰り返さぬと誓う広島の首長である。大戦でアジアなど海外の国と人々を踏みにじり、原爆投下の破局に至った歴史を振り返れば、勅語を否定する先頭にこそ立つべきではないのか。

 

 博愛や公益の大切さを説くなら、核兵器廃絶を国内外に広く訴えてきた取り組みの意義を伝える中で話せばよい。憲法を擁護する義務を負う公務員として、相反する価値観に根ざす教育勅語をあえて持ち出し、肯定的に示すことは許容されない。

 

 政府は安倍内閣当時の2017年、教育勅語について「憲法や教育基本法に反しない形で教材として用いることまでは否定されない」との答弁書を閣議決定した。その前後、勅語には「評価できる部分がある」などとする発言が閣僚らから相次いだ。

 

 「負の歴史」の史料として触れることを除けば、教育勅語を生かす方法などありえない。国も自治体も、改めて確認する必要がある。

 

  • (3)「『負の歴史』の資料として触れることを除けば、教育勅語を活かす方法などあり得ない。」とは、正に気違いじみた差別ぶりだな。


1> 「負の歴史」の資料として触れることを除けば、教育勅語を活かす方法などあり得ない

・・・一体、何をどう考えると、こんな断定断言が出来てしまうのだろうか。タイトルにもした様な教育勅語に対する、馬鹿げた偏見がある』としか思えず、「”教育勅語”差別』とさえ、呼べそうだ。
 
 つまりは、上掲朝日社説は「教育勅語に対するヘイトスピーチ」と見ると、あれこれ合点がいく。

 大体、上掲朝日社説でも引用されている

2> いざという時には一身を捧げて皇室国家のために尽くせ

と言うのを、上掲朝日社説は批判的に・・・と言うより『非難囂々』という扱いな訳だが、「2> いざという時には一身を捧げて皇室国家のために尽くせ」という主張・教えは、「誰でも言う」とまでは言わないが、『古今東西何れの国でも、その様に主張し、教える人は居る。』とは断定出来よう。コレは、壁の東西も問わないから、アメリカ、イスラエル、NATO諸国、ロシア、中国、北朝鮮も同様である。

 ああ、「皇室国家」ってのは我が国だけだから、辛うじて「2> いざという時には一身を捧げて皇室国家のために尽くせ」という主張は、普遍化・ 一般化されることを「免れて」いるのか。だが、より一般的に「2A>いざという時には一身を捧げて国家のために尽くせ」という主張なれば、先述の通り古今東西・壁の東西何れの国でも『そう言う主張・教えは、ある』と断定断言出来ること。その断定断言には、当然我が国も含まれるのであるから、我が国においても「2> いざという時には一身を捧げて皇室国家のために尽くせ」という主張・教えは、少なくとも完全否定され、絶対悪視される筋合いは無い。

 第一、「2A>いざという時には一身を捧げて国家のために尽くせ」ではなく、「2> いざという時には一身を捧げて皇室国家のために尽くせ」と、「皇室国家」の一語で上記2>を「我が国限定の話」にしようとしたところに、朝日ですら「2A>いざという時には一身を捧げて国家のために尽くせ」という主張・教えは「全面的には否定出来ない」という「裏事情」が垣間見えるでは無いか。左様な「裏事情」は「朝日新聞にすら芽生えた国家観の萌芽」と見ることが出来るし、左様であれば幸いコレに過ぐるは稀有であろう。

 その上で、「皇室国家」の一語で「我が国限定の話」にしようという姑息な手段を使ってまで、我が国と教育勅語を貶め、殆ど絶対悪視している朝日には、違和感や嫌悪感よりも、ある種の「哀れみ」を感じるな。

 読者諸兄におかれては、先ず教育勅語原文を読んで戴きたい。その解釈解説も何通りもあるだろうが(上掲朝日社説が示すのも、一つの「教育勅語解釈」である。(*1))だが、教育勅語が「1> 「負の歴史」の資料として触れることを除けば、教育勅語を活かす方法などあり得ない。」か否かは、各自各員が「小さな灰色の脳細胞」で判断願おう。
 

  • <注記>
  • (*1) 勘違いして欲しくないのだが、私(ZERO)は「教育勅語は我が国の宝」と思っているが、そうは思わない人や主張を、少なくとも全否定する気は無い。
  •  私(ZERO)が上掲朝日社説に「噛みついている」のは、「1> 「負の歴史」の資料として触れることを除けば、教育勅語を活かす方法などあり得ない。」と、断定断言しているから、である。
  •  斯様な主張を以て「広島市長は認識を改めよ。」と主張するのは、思想統制以外の何であろうか???
  •  報道機関である筈であり、言論の自由の守護者足ることも期待される、新聞社が、思想統制を求めるとは、何事であるか!!!