• 「ゴジラー1.0」は、”反戦”か?-映画「ゴジラ-1.0」に対する一考察。

 

 

 

 
 警告しておく。本稿は、映画「ゴジラ-1.0」に対する作品紹介では無い。映画「ゴジラ-1.0」を「反戦を訴えている」とする映画評等に対する反発から生まれた「反対論」であり、同時に映画「ゴジラ-1.0」に対する考察を深めようとするものである。

 従って、読者諸兄は「ゴジラ-1.0」を(少なくとも1回は)視聴している、と言う前提で書く。早い話がネタバレありと言うことである。

 映画「ゴジラ-1.0」を視聴していない読者は、この先を読まないことをオススメする。と同時に、騙されたと思って、一度視聴する事を、相当に強くオススメする。
 
 因みに私は既に6回見た。全て自腹で、招待でも何でも無く、その故もあってか「6回とも泣いた」事を告白しておこう。
 また、モノクロ版「ゴジラ-1.0/C(マイナスワン/マイナスカラー)」も、先ず確実に見るであろう。
 

  • .序 蔓延る「反戦平和」論


 反戦平和とは「美しい言葉」である。美辞麗句の典型例と言っても良さそうだし、コレに面と向かって公然と反対するとか反意を唱えるとかは、「憚られる」では済まないこともありそうだ。地位や立場によってはそれだけで「社会的地位を失う」事だって想定できそうなくらいだ。

 しかしながら、「殆ど生まれながらの右翼」にして、生来のへそ曲がりでもある私(ZERO)からすれば、反戦平和」は「万古不易の真理」でも無ければ「万人等しく求めるモノ」でも無い、と断じよう。イヤ、世の大半の人間が「反戦平和」に「心から賛同する」であろう事は認めるモノの、「中には、そうでは無い人間もいる。」と断定断言する(*1)し、それこそが正に「多様性」でもあれば、「内心の自由」でもある。私自身が「少なくとも無条件に反戦平和には同意しない。とも断言しよう。「奴隷の平和」に陥るよりは、「戦う」ことを選択する事はあり得るし、また左様な「戦い」には備え、覚悟し、準備すべきである。
 
 ではあるが、何しろ「美辞麗句」であり「面と向かって反対も反抗もしがたい」モノであるから、あの人は、反戦平和を訴えた。」と言えば大抵「褒め言葉」になる。従って「弔辞」にもなり得る、訳だ・・・誰の弔辞を考えて居るかというと、我が師の一人、漫画家・松本零士だ。
 昨年亡くなった松本零士に対し、国内外から惜しむ声、弔辞が集まったのは、「不肖の(勝手な)弟子」たる私(ZERO)としても「嬉しいこと」ではあったが、そんな中、特に報道関係を中心に故・松本零士氏は、反戦平和を訴えた。」って類いの「追悼記事」が相次ぎ、松本零士氏を師と仰ぐ「長年のファン」としては大いに「違和感」・・・どころか「嫌悪感」を覚えたモノである。我が師を、愚弄するか!!と。その際に結構取り上げられた、大東亜戦争を主な舞台とする「戦場漫画シリーズ」に「反戦的な科白」があることは認めるが、松本零士の描く漫画が、「我が師の教え」が、「単なる反戦平和ではない」事は、(私(ZERO)に言わせるならば、)「火を見るよりも明らか」だ。
 詳細は別記事にその時したので、此処では省くが・・・・「我が師」である。逆にその事が正に、「松本零士氏を、単なる反戦平和論者たり得ない」事を示していよう。

 で、翻って、映画「ゴジラ-1.0」である。この映画についてもやはり「反戦平和を訴えている」とする言説は枚挙に暇無く、甚だしきは、その「反戦平和」が「人気の秘密・原因」とまでしているくらいだ。

 コレは一寸、看過しがたい。

 私(ZERO)は、別にゴジラファンでも無ければ、怪獣映画ファンでも無い。多分、映画館で見た「ゴジラ」は、本作で2作目だ。しかし、(松本零士御大と同様に)本作が「単純に反戦平和を訴える」だけだったら、先ず確実に「一回劇場で見たらお終い」だったろう。
 
 それを、既に6回も見ているのだ。「金を払って劇場で2回見る(*2)」のさえ初めてだというのに、だ。

 かかる「看過しがたい」事態・事情が、本稿執筆の動機である。
 

  • <注記>
  • (*1) 「誰が?」と問われるならば、第2次大戦中の米陸軍の将軍・ジョージ・S・パットンを挙げようか。あと、名前は忘れたが、A-1スカイレイダー艦攻パイロットも、その様に断言していたな。
  •  A-1スカイレイダー艦攻パイロットらしい、と思うのは、私(ZERO)だけではない、と思うぞ。 
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  • (*2) 「金を払わずに」だったら、「デルタフォース」でそうした覚えがある。アレも2回見て、2回とも(本編とは余り関係の無いシーンで)泣いたなぁ。昔の映画館って入れ替えが無かったし、指定席は少数派だった(自由席=無指定の席が多かった)し、同じスクリーンで同じ映画を何度も上映するのが普通だったから、一度入場してしまえば、何度も同じ映画を見ることが出来た。 


 

  • 神としての「ゴジラ」

  敢えて極言するならば日本人というのは「何でもかんでも神にしてしまう」民族(*1)である。その一例は一昨年流行語となった(らしい)「神ってる」と「神○○」などの修飾語「神」であるし、「丁寧に丹念に百年間使い続けた道具は、神になる」と言う「付喪神」思想である。「艦むす」「馬娘」はじめとする数多の「擬人化」も、この「汎神主義」というか「万物疑神化思想」の延長と考えると、得心の行く部分は多かろう。 

 であるならば、「ゴジラ」と言う日本でも指折りと言って良さそうな「古典的アイコン」が、ある種「神」と考えられるのも、道理である。本作「ゴジラ-1.0」の監督自身が、ゴジラを「荒ぶる神」と言っているし、その映画を作る(と言うことは、多くの場合その「荒ぶる神=ゴジラ」を「倒す」なり、何らかの「和解」乃至「理解」に至る過程を描く事になる。)事はその「荒ぶる神を鎮める」ある種の「神事」である、と述べている。正直「以前劇場で見たゴジラ映画」には、そんなこと微塵も感じなかったのだが、本作にはその様な、「神殺し」と言うよりは「神送り」と見ることの出来る節が、多々ある。
 例えば・・・(ネタバレ警報!ネタバレ警報!ネタバレ警報!!クライマックスシーン。日本人の知恵と勇気でようやっと倒されたゴジラは、「後光」とさえ見える様な「放射熱線」を四方八方に放ちながら、静かに自壊・崩壊していく。居合わせた人々は、駆逐艦に乗りこんだ元海軍軍人も、東洋バルーン社員も、タグボートの船員たちも、揃ってそのゴジラに対し海軍式敬礼を捧げる。
 コレは一寸、外国映画では想像しがたいシーンである(*2)。アメリカ映画なんかなら、「やったぜ!ゴジラ倒したぜ!!アメリカの科学は世界一ぃぃっ!We Are No1!! 」とか大騒ぎを始めそうだ。
 だが、「ゴジラ-1.0」は、厳粛にして荘厳なBGMと人々の敬礼で、「ゴジラを送る」のである。(その一寸前の「無音シーン」も、思い出すだけで熱いモノがこみあげる・・・)
 正に、「荒ぶる神=ゴジラを鎮め、荒魂を和魂として送る」神事であろう。
 
 であるならば、本作「ゴジラ-1.0」に於ける「海神作戦」を筆頭とする「対ゴジラ戦闘」は、単なる「アクションシーン」ではない。少なくとも一面「神鎮めの儀式」でもある。
 だが、その「神鎮めの儀式」は、単なる「祈り」ではない。ある種の刻苦勉励であり、努力と決意である。

 更には、ゴジラを我が国対する災厄、「天災や戦争の象徴」と考えたとしても、それに対する「神鎮めの儀式」は「海神作戦」などの「戦闘」という形を取っているのだから、少なくとも「単純な反戦」ではない。
 無論、戦争準備よりも外交努力をしろ(*3)とか、平和を愛する諸国民に全て任せれば大丈夫(*4)」等の「空想的平和論」とは、対極と言って良いぐらいにかけ離れている。寧ろ、大東亜戦争敗戦と帝国陸海軍解体による「戦争準備の根本的欠如」が、本作の「絶望的状況」を形成している。

 即ち、本作「ゴジラ-1.0」は、「神鎮めの儀式としての”戦闘”」も、それに備える「戦争準備」も、肯定しているのであり、「単なる反戦」とは、少なくとも「一線を画している」と言うべきである。
 

  • <注記>
  • (*1) 正確には多分、「日本文化」なのだろうな。遺伝子だとか血統だとかは、その補助的材料、援護射撃ではあるが、本筋・効力射ではない。
  •  だから、「日本かぶれの外国人」が日本に滞在すると「日本人化」してしまう可能性は、相応にあるのだろう。 
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  • (*2) 実際、「理解できない」って海外コメントも読んだことがある。まあ、海外に限らず、日本人でも、「理解できない」人には「理解できない」のだろう。
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  •  「貴様たちには、判らないのか?
  •   判らないならば、それで良い!」byキャプテン・ハーロック
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  •  「彼らを責めてはいけない。
  •   彼らには、判らないのだ。」byリチャード・ヴァレリーHMSユリシーズ艦長 
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  • (*3) 人語も通じぬゴジラ相手に、「外交」も「交渉」もヘチマも無いものだ。 
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  • (*4) 「馬鹿な主張」とお思いだろうが、日本国憲法前文は正にこの様に主張している。日本国憲法前文は、「名誉ある地位」の為に全国民の生命財産を失っても「良しとしている。」。「平和を愛する諸国民」なんてどこにどれだけ居るかも怪しく、実在するかも疑わしい存在に、我が国の安全を託してしまえと言っているのだから、他に解釈のしようがあるとは思われない。あるとしたら、「平和を愛する諸国民」と言うのが「現実に、厳然と存在する」と言う、確信と言うより狂信ぐらいしか思い付かない。
  •  所で、その「平和を愛する諸国民」ってのは、今どこで何をやっているのかね?ウクライナへのロシアの侵略に対しても、ハマスのイスラエルへのミサイル攻撃&国民誘拐&強姦略奪に対しても、「何もしていない」としか思えない・・・と言うより「どこに居るのかすら判らない」のだが。それ以前の4次にわたる中東戦争もベトナム戦争も朝鮮戦争等々に対しても、な。 


 

  • .「ゴジラ-1.0」に於ける「大東亜戦争否定」論

 本作の随所、各科白に「大東亜戦争に対する批判」、「大東亜戦争否定」論が散見されるのは事実である(*1)顕著なのは第2次ゴジラ上陸戦前夜の、「ゴジラ討伐作戦(海神作戦)」立案者たる「学者」野田さんの台詞だろう。この台詞で野田さんは「我が国は、命を粗末にしすぎました。」として、先の大戦=大東亜戦争の反省点を、
 ①戦車の脆弱な装甲 
 ②補給軽視の結果である餓死・戦病死者の多さ 
 ③戦闘機の脱出装置未装備 
 ④特攻・玉砕

と列挙した上で、「今次作戦(海神作戦)は、一人の犠牲者も出さないことを誇りとしたい。と、名科白=名演説を放つ。

 「今度の戦いは死ぬための戦いじゃない。生きるための戦いなんです。」と言う名科白と共に。

 この野田さんの科白・演説の趣旨は、大筋として私(ZERO)も同意できるモノである。
 だが、幾つかの点は突っ込み/反論せざるを得ない。
 先ず上記③について、「第2次大戦機は、脱出装置が無いのが当たり前で、ある方が珍しい。という点は、指摘せざるを得ない。脱出座席/エジェクションシートは、今でこそほぼ「戦闘機の必須アイテム」になっているが、コレが実用化したのは第2次大戦末期で、軍用機に装備したのはドイツだけ。しかも機種としては良い所3機種(*2)である。
 「脱出前にキャノピー(風防ガラス)を吹き飛ばす装置」を搭載した機種だと一寸増えるが(*3)、その程度。大東亜戦争当時の軍用機は「自らの手で風防なりドアなりを開け、自分の脚で飛び出す」のが基本であったから、上記③の批判は、相当に無理がある。(乃至、大日本帝国及び大日本帝国陸海軍に対し、不当である。)
 上記②「戦車の脆弱な装甲ってのも、「1937年制式採用の97式中戦車を、大戦を通じて(殆ど唯一の)主力戦車としてきた。」事と、大戦中の戦車の「火力&防御力インフレ」を考慮に入れて然るべきであろう。1937年制式の中戦車として、我らが「チハ車」=97式中戦車は、「重装甲」とは言いかねるが、「当時としては十分な装甲」とは言い得る。また、日本軍の戦車は「歩兵の支援」を主たる任務とし、「対戦車戦闘」を考慮していなかったのも、考慮はすべきだろう。「最良の対戦車兵器は、戦車」って結論/結果論を出すのは、米国でも大戦後半だ。
 更には、上記④特攻・玉砕が、「戦う将兵本人が、死ぬための戦い」という言い方は出来るだろうが、その相当部分(恐らくは大半)が、「自らは死ぬが、他者を活かす戦い」であった、(乃至、「そうあろうとした」。)事も、指摘しない訳には行くまい。本作の中にも主人公の「明子の未来を守りたい」という科白があるが、同様の思い、同様の願いを、特攻や玉砕に散った英霊たちの相当部分が持ち、願っていたことには、殆ど疑義の余地はあるまい。【強く断言&確信】

 即ち、上記の野田さんの名科白・名演説は、「大東亜戦争に対する反省と批判」を含んでいるのは事実であるが、「戦うこと」を否定している訳ではないし、その趣旨・本旨に従っても「自らの命は捨て、他者を活かす」戦法・戦術たる「特攻・玉砕」は、少なくとも「一律一概に全否定されるべきモノでは無い」。
 

  • <注記>
  • (*1) そう言えば、「シン・ゴジラ」の主人公の科白にも、「取って付けた様な」大東亜戦争の教訓的科白があったなぁ。ああ言うのは何か?「ポリコレ」の一種かぁ?
  •  まあ、この程度の「ポリコレ」ならば、「大東亜戦争肯定論」を完全否定しない限り、許容できるが。 
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  • (*2) He219ウーフ、He162ザラマンダー、 Do335。で、最後者は試作のみ。前二者も、配備数は多寡が知れている。He162なんて、「第二次大戦のジェット戦闘機」だ。
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  • (*3) 第2次大戦のドイツ主力戦闘機の双璧の片方(でも小さい方)であるフォッケウルフFw190が装備しているから、相応の数にはなるが。 

 

  • 受け継がれる「特攻精神」

 無論、そのクライマックスシーンが示す通り、本作においては「特攻戦術」は否定されている。前述の野田さんの名科白に③「戦闘機の脱出装置未装備が強調・対比する様に、「(実は)震電に装備されていたドイツ製射出座席(*1)」に依って、主人公は生還する。

 だが、章題にした通り、「特攻精神」は、本作においても否定はされていない。イヤ、寧ろ、肯定されている。【強く確信&断言】

 それは、ゴジラ迎撃作戦「海神作戦」発動直前、補修整備なった震電に乗りこんだ主人公と橘整備長との会話で明らかだろう。震電に乗りこんだ主人公は「射出座席」のことは知らないし、そもそもそんなモノ期待していない。震電のコクピットに納まっても手の震えが止まらないのに気づき、「生きたいようです。俺は。」と自嘲的な科白を吐く。それに対し橘は、「(映画冒頭近くでゴジラに殺された大戸島駐屯整備隊の)あの日死んでいった奴らも、そう思っていたよ。」と突き放す様なことを言う。
 だが、それを受けて、尚「ゴジラへの特攻」の決意を示す主人公なればこそ、橘は「射出座席の操作法」を教え、「生きろ」と送り出し、敬礼(*2)で離陸を見送った後も全てを終わらせるんだ。と、激励を送っている。


 更に遡るならば、主人公の「大戸島玉砕の全責任は橘にある。」とする「フェイクニュース」に激怒し主人公を「夜道にいきなり背後から襲って殴って気絶させ、手足を縛り上げた」上、主人公から「ゴジラ退治を手伝ってくれ」と言われても全く協力する気を見せなかった橘が、一転して(髭まで綺麗に剃って)震電を飛行可能なレベルまで整備することに同意したのも、主人公の「震電爆装案と特攻によるゴジラ退治案」を聞かされたから、だ。コレを聞かされた時点で橘は、震電の存在も知らなければ、その震電が(偶々、ドイツから輸入されたらしい)射出座席を装備しているとも、知らなかった、筈だ。
 つまり、橘整備長の「震電復活への協力」も、「射出座席操作法の伝授」も、主人公が「差し違えてでもゴジラを倒す。」と言う決意を表明し、それが真実であることを橘自身が納得したから、だ。

 故に、言う。ゴジラ-1.0は、特攻戦術を(表向きというか、皮相的に)否定しているが、特攻精神は肯定している。と。
 

  • <注記>
  • (*1) コレが「架空の設定」であることも、間違いないが。「プロペラを火薬で吹き飛ばす装置」は、装備していたはずだが。 
  •  
  • (*2) この、震電離陸のシーンも、結構好きなんだよなぁ。 


 

  •  振り下ろす、剣の下は、深み川。踏み込んでこそ、浮かぶ瀬もあれ。

 章題にしたのは、講談社の講談文庫「猿飛佐助」の第1話にて、忍術名人として後に有名になる猿飛佐助(*1)が、その忍術の師匠たる戸沢白雲斎先生から「免許皆伝」の際に賜った(確か、扇子に認められた)和歌であり、「最後の教え」である(*2)
 「武術の神髄」とも言われるこの和歌の意味するところは、「虎穴に入らずんば虎児を得ず。」などと同工異曲、とも言えそうではあるが、前章までの「ゴジラ-1.0に於ける主人公・敷島と橘整備長との関係・会話」からすると、自ずと別の意味が見えてこよう。
 
 主人公・敷島は「ゴジラ相手に特攻し、コレを倒す。」決意をした。「(残されることになる)明子の未来を守るため」に、己が命を犠牲にしても、他者=明子を「活かそう」と決意した。その決意が、「振り下ろす剣」であり、「深み川」である。
 そこに「脱出装置」と言う「浮かぶ瀬」があった。それを発見し、教えてくれたのは、橘整備長である。橘は、主人公の決意=「振り下ろす剣」=「深み川」を「真実」と認めたればこそ、「浮かぶ瀬」を教えたのである。

 そこに、橘整備長自身の「大東亜戦争中の特攻戦術に対する非難と反省」が込められている可能性は、多分にあろう。
 
 だが、「大東亜戦争中を含めて、特攻する者や、特攻する者自身の(*3)特攻精神を、非難批判しているとは、到底思われない。」

 それが、武術というモノじゃ。と言う、戸沢白雲斎先生の言葉が聞こえる様な気がするのは、私(ZERO)だけだろうか。

 いずれにせよ、そんな「戸沢白雲斎先生の言葉」が聞こえる様な気がする私(ZERO)には、本「ゴジラ-1.0」が「反戦を訴えている」などと言うのは、「極めて浅はかな理解」としか思われない。
 

  • <注記>
  • (*1) 無論、後段の話だから、「講釈師、見てきた様なナントヤラ」って奴で、典型的なフィクションなのだろうが。
  •  「講談の忍術」ったら、呪文で姿を透明化したり、大ガマとか大鷲を「召還」したり、ほぼ魔法だからね。 
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  • (*2) 因みに、戸沢白雲斎に師事することを決意した「最初の出会い」の際に示された「最初の教え」が、何度か引用している、「”武”と言う字を、見るが良い。”戈(ほこ)”を”止める”とある。
  •  ”それ。抜くぞ。覚悟。”と見せながら、遂に抜かずに収める。これが”武術”と言うモノじゃ。」である。 
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  • (*3) つまり、第三者とかでは無く、当事者としての。