• .ディズニー100周年記念アニメ「ウイッシュ」

 

 

 漸く日本公開が始まったばかりで、劇場上映どころか試写すら見て居らず、たとえ招待されても見ないだろうアニメ映画について、とやかく言うのも「野暮」乃至「礼儀知らず」と言うべきかも知れないが・・・予告編だけは映画館で見て(「ゴジラ-1.0」のお陰だ。)、街中では随分と金のかかっていそうな宣伝ディスプレイも見て、逆にそれ故に、絶対に見に行かないだろう」レベルの「違和感」(と言うより、「嫌悪」か。)を抱いたとあっては、チョイと看過もし兼ねよう。
 

 

 

 ディズニーと言えば、最近じゃぁテーマパークの方がメジャーと言うより、この種のテーマパークの元祖・本家本元、と言うべきかな。)であろうが、アニメ=アニメーションとしてもかなりの古手・老舗。戦前からアニメを作っているのだから、相当なモノだ。
 なればこそ、「百周年記念アニメ」なんてモノも作れてしまうのだろうが、その「百周年記念アニメ」である「ウイッシュ」ってヤツが、私(ZERO)的にはどうにもこうにも「頂けない」。
 
 ディズニーと言えば、ここしばらくの間「ポリコレ配慮」を売り物にしたような(*1)作品を連発し、その「ポリコレ主張」が故に、興行的に失敗し続けている、ってイメージがある。まあ、そんな「イメージ」は、「ポリコレは、"正しくない"から"ポリコレ"だ(*2)。と平気で公言断言してしまう私(ZERO)の偏見ないし「勝手なイメージ」かも知れない。御多分に漏れず本作の主人公も、褐色の肌で縮れ髪の、どうやら「黒人」であるらしい所に「ポリコレ配慮」が見られる。だが、私(ZERO)と本作の接点は、先述の通り映画館で見た予告編と町中の宣伝ディスプレイ、そこでリフレインされていた日本語主題歌(コレは、予告編にもあった)ぐらいだから、「ポリコレ要素」も「ポリコレ臭」も、その影響は限定的であり、私(ZERO)の抱いた違和感ないし嫌悪感と、「ポリコレ」とは、直接的には関係ない。多分。

 「違和感」のとっかかりは、予告編の冒頭近く、主人公が暮らしているという全ての人の願いが叶う魔法の国って、背景説明である。どうも本作は、この「魔法の国」の「全ての人の願いが叶う」って謳い文句に嘘偽りがあり、その黒幕が「魔法の国の国王」で、主人公がコレに立ち向かう、って話、らしいのだが・・・

 全ての人の願いが叶うなんて謳い文句を、ストレートに丸っと鵜呑みに出来るのは、余程のガキか大間抜け、ではなかろうか。

 無論、ディズニーの子ども向けアニメだから、それで良い/それが良い。って考え方もあり得るだろう。だが、その考え方は、「実はその謳い文句が嘘偽りである」って本作のストーリー(らしい)とは、相反するのでは無かろうか。たとえ結末が、「全ての人の願いが叶う、正しい魔法の国が”復活”しました(*3)!」と言う「ハッピーエンド」だったとしても。イヤ、先述の通り私(ZERO)は本作を見ていないので、そう言う「ハッピーエンド」かどうか、判らないのだが。

 少なくとも、私(ZERO)のような「チョイとひねた大人」は、全ての人の願いが叶うなんてフレーズは、聞いた瞬間にあ、嘘だな。」と判断・断定してしまう。
 何故ならば、「貴方の願い」と「私(ZERO)の願い」は「同じ」ないし「似ている」事は珍しく、「異なっている」のが普通であり、「相反し、相容れない。同時には成就しない」事だって珍しくはない。
 「世界一の大金持ち」ぐらいの願いならば、「同額一位の大金持ちを量産」すれば「複数同時実現」可能であるが、世の中には相反し相容れず同時実現出来ない願い(*4)を抱く者はゴマンと居る。「イスラエルの願い」と「ハマスやイランの願い」も、「プーチンの願い」と「ゼレンスキーの願い」も、「相反し、相容れず、(基本的に)同時実現不可能」だろう。

 更に言えば、人は必ずしも「善」ではない。その「願い」が「良いモノ」「美しいモノ」とも限らないし、「普遍的なモノ」である保証も必要も無い。他者の破滅や絶滅を「願い」とすることだって、あり得よう。
 そんな「願いが叶った世界」は「願った当人」以外には、ろくなモノでは無い。破滅乃至絶滅させられた者の「願い」は、言わすもがな、だ(*5)。
 従って、全ての人の願いが叶うなんてのは、「嘘くさい」では無く「嘘」である。国王の陰謀があろうが、無かろうが、だ。

 更に私(ZERO)の違和感乃至嫌悪を「煽った」のは、その日本語主題歌(多分、劇中歌でもある。主人公が歌うようだ。)の歌詞である。そのものズバリ「The Wish」と言うらしいこの主題歌は、タイトルやキャッチコピーにもあるように「今此処にある、この願い」の強さや大切さを歌い上げている・の・だ・が・・・

 

 

 

 その「今此処にある、この願い」が、此処ではない何処かへ行きたい」ってだけであり、「何処へ行くか?」さえ判って居らず、あろうことか他者・他人に(*6)「教えて」と訴えている。
 それと共に、「此処」である「従来従前の自分」や「変われない/変わろうとしない/変わらせない」自分や周囲に対する不満、呪詛、糾弾に満ち溢れている。
 
 敢えて断言しよう。この歌・この歌詞は、「愚痴」だ。「願い」だの「願いの大切さ」だの、美辞麗句に溢れているが、その「願い」は、「現状の否定」「従来従前の自己の否定」ではあるが、「現状の改革・改善」ですら無く、良く言って「脱出」。早い話が「逃亡乃至現実逃避のススメ」である。

 まあ、それでも「悪の親玉=国王」と対峙はするらしいから、この歌詞の通りに「何処かへ逃げ出す」展開には(幸いにも)ならない様ではあるが、この歌・この歌詞に関する限りは「此処から逃げたいと願っている」ばかりである。

 そんな「敵前逃亡願望」を「大事だ」とか「奪わせない」とか、言われてもねぇ。同調する気にも、同情する気にも、ならないぞ。

 まあ、ディズニーの方も、私(ZERO)なんぞにこの映画を「見せたい」とは思っていなさそう、ではあるが、なぁ。

 でも、百周年記念で、コレかよ。
 ガキの頃とは言え「ファンタジア」に一定の影響を受けた(と思う)私(ZERO)としては、「寂しい」と言うより「情けない」ばかりだぞ。
 

  • <注記>

  • (*1) エッt?「売り物じゃない」って?じゃぁ、何が「売り物」なんだぁ??「ポリコレ」ぐらいしか、「売り物」が無さそうな作品群じゃぁないか。 

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  • (*2) 「正しい」ならば、くどくどと説明は不要で「正しい」と言えば、事足りる。

  •  「実は正しくない」から、「正しい」ことにするために「政治的」なんて限定詞を付けねばならない。

  •  従って、「ポリコレ=政治的に正しい」等という表現は、「実は正しくない」事を、「ポリコレを主張強調する者も、承知している。」と、私(ZERO)は考えて居る。 

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  • (*3) イヤ、それって、後述するが、殆ど「想像を絶する」状態なんだが。 

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  • (*4) 「この世では」。多次元宇宙・パラレルワールドを量産して、「一つの願いに一つの宇宙/ワールドを割り当てる」様にすれば、「相反し、相容れない願いの同時実現」は、可能となる。 

  •  それを「同時」と呼べるかは、チョイと・・・大分、疑問だし、それを一つの「魔法の国」と呼ぶのは、もっと疑問だが。 

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  • (*5) 理論上、「破滅乃至絶滅させられた者の願いも同時成就した」という事態はありうるだろう。だが、左様な状況を以て「願いが叶った」というのは、凄まじい偽善欺瞞であろう。 

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  • (*6) まあ、人とは限らず、神だの天だのの超常的存在に、なのかも知れないが・・・「己ではない」事に変わりは無い。