• 「ポリコレ」は、「正しくない」から、「ポリコレ」だ。

  • (1)私(ZERO)は、「ポリコレ」を信用しない。

 略称「ポリコレ。原語は多分、Politically Correct(政治的に正しい:形容詞)」又は「Political Correctness(政治的な正しさ:名詞)」であり、世情とみにかますびしいらしい「ある種の評価基準」である。
 
 章題にもした通り、私(ZERO)はこの「ポリコレ/政治的に正しい」ってヤツを「全く信用していない」どころか、タイトルにしたとおり、ポリコレ/政治的に正しい」なんてのは「(実は、(*1))正しくない」事だと、ほぼ断定している。

 僅かなりとも「小さな灰色の脳細胞」を有し、些かなりとも自律的な思考力があれば、殆ど自明とさえ思えるのだが、「普通に考えて/常識的に判断して(直感的に、を含む)正しい」ならば、単に「正しい」と言えば済む話。そこへ政治的に(は)なて限定詞を付けたり、ポリコレなどと尤もらしい横文字(ってのも、最早「死語」かも知れないが)ないし「通ぶった隠語」を付けるのは、「普通に考えて/常識的に判断して(直感的に、を含む)、正しくない」若しくは、「普通に考えて/常識的に判断して(直感的に、を含む)、正しいとは断定断言し難い」事を隠蔽し糊塗する意図/意思がある、と断ぜられてならないから、である。

 言い替えるならば、「実は正しくない(ないし、『正しい』とは断定断言しがたい)」から、「政治的に」なんて限定詞の力を借りて、「政治的に(は)正しい」だの、「ポリコレ」だのと、「抜かしている」と、思えてならないから、である。

 全く姑息にして、且つ程度の低い「言い替え」であり、笑止という他、一寸評しようが無い。
 

  • <注記>
  • (*1) 「普通に考えれば」ないし「常識的には」と言った視点から、かも知れないが 

 

  • (2)私(ZERO)の保守的傾向から、我が「ポリコレ批判」を検証してみよう。

 弊ブログを些かでも御覧になれば自明であろうが、私(ZERO)に保守的傾向があることは、「否めない」と言うより「自明」であろう。再三繰り返す通り私(ZERO)が「殆ど生まれながらの右翼である」こともその事には影響ないし相関していそうではあるが、同性婚も夫婦別姓も我が国への法的導入には再三反対を表明しているし、死刑制度にも捕鯨にも賛意を表している。現在の岸田政権には言うべき事言いたいことも相応にあるが、先々代の安倍政権には相当に高い「支持率( 此処では、私(ZERO)自身が当時の安倍政権の政策に対して賛同/同意できる率、の意味 )」を示していたことなどは、弊ブログを御覧になれば明白であろう。
 であるならば、比較的新しい評価基準( 声高に言われる様になったのは、ここ10年ほどでは無かろうか。どう遡っても20世紀には至りそうに無い。 )であるポリコレ=政治的に正しい」は、「新しいが故に、保守的傾向にある私(ZERO)が、反対し、拒絶している」という可能性を、少なくとも排除すべきでは無いだろう。同様のことは、「法制度としての同性婚/夫婦別姓」や「捕鯨反対」についても言えそうだな。

 ああ、「死刑制度廃止」については違うだろう。何しろ我が国では平安時代殆ど死刑が執行されず、事実上「死刑制度は廃止されていた」そうだから。その背景・根拠は、人道主義だの「死刑は良くない」とか言う「思想」では無く、「死穢を忌避する」という「ある種の宗教」であったとしても、「我が国がかつて死刑制度を(ほぼ)廃止していた」事に変わりは無い。従って我が国では「少なくとも死刑制度廃止は、新しいモノでは無い。」と言うことになる。
 以前にも記事にしているが、私(ZERO)が「現存する我が国の死刑制度に賛成している」のは、「死刑制度をこのまま存続させる未来の日本」と「死刑制度を廃止してしまった未来の日本」に想像を巡らして、後者の方が前者より「優れている」とも「良い」とも、思わない/思えないからであり、「万死を以てすら購えぬ罪」すら在るというのに「一死すらも与えられぬ刑」と言うのは「釣り合う訳が無い」と考えるから、である。後者の考え方には「私(ZERO)自身の保守的傾向」が現れている、かも知れないが、前者の考え方については・・・ああ、死刑制度を廃止してしまった未来の日本」の方が「良い」とか「優れている」とか「思えてしまう」のが「新しい考え方」ってことか。EUがその加盟国に「死刑制度の廃止」を求めるのも、左様な「新しい考え方」によるのだろうが、私(ZERO)としては「左様な考え方もある」のは構わないが、「左様な考え方に染まってしまい、我が国が死刑制度を廃止してしまう」のには、依然「反対する」ぞ。

 新しい考え方の方が、正しい。」とは限らない。共産主義は「反資本主義」として誕生した(*1)、「明らかに資本主義よりも新しい考え方」だが、その「新しい考え方」である「共産主義」は、どうなっている?死滅絶滅した、とは言えないだろうが、「一頃の世界を二分し、下手すると席巻しかねなかった」勢いは、今は見る影も無かろう(*2)。

 ポリコレに話を戻すならば、先述の通りポリコレ=政治的に(は)正しいと態々言うのは、「単に正しいとは言いかねる(若しくは、普通に考えれば「正しくない」)」事を、敢えて「(政治的に「は」)正しいと主張して、常識的・保守的・「普通に考えれば」正しいとする基準よりも「ポリコレ基準=『政治的』基準を優先しろと言う、(相当に明示的な)主張であり、ある種の「道徳変更」を要求する、ある意味「思想改造の押しつけ」であろう。

 なぁんだって「政治的」基準に基づく「正しさ」が、従来的・保守的・「普通に考えれば」の「正しさ」よりも優先できてしまうのか、私(ZERO)の様な「異教徒」には、全く理解できない。善悪正邪なんてのは、普通に考えれば道徳の問題であって、政治の問題ではないだろう。

 ああ、そこを「善悪正邪も政治の問題」と考えるのが、「新しい考え方」であり「ポリコレの神髄」か。だとするとそれは普通、「気違い」と呼ばれるのでは無かろうか。

 「自分の道徳は、合憲だ。」とか豪語できてしまう憲法学者とかも、きっと「ポリコレ仲間」なのだろう。

  • <注記>
  • (*1) カール・マルクスの「共産党宣言」は正に、左様に主張している。 
  •  
  • (*2) 補足しておくべきだろう。弊ブログで随分前だが「新しい共産主義」を標榜する方と、コメント応酬の議論を交わしたことがあった。「サプライチェーンマネジメントの究極形として、『能力に応じて働き、必要に応じて受けとる』と言う『共産主義の理想』を実現しよう」って主張、と、私(ZERO)は理解した。
  •  「一つの理想型としては理解するが、それは村程度の小さな単位でしか成立しないだろう。国としては、無理だ。」と言うのが、私(ZERO)の主張で、両者合意には至らなかったモノの、相応の「相互理解」には達し「殆ど生まれながらの右翼」たる私(ZERO)が、「同志」と呼びかけられると言う、稀有な体験もしたので、良く覚えている。
  •  些か脱線したが、斯様な「新しい共産主義」ってコンセプトも、世の中にはあるってことで、昔話を追記した。 

 

  • (3)「ポリコレ」考察。「ルッキズム(=見た目至上主義)批判」

 ポリコレの一例として、「ルッキズム(=見た目至上主義)批判を考えてみよう。美男美女が得をするのは許せない!って主張ですら、「醜男醜女の嫉妬」に思えて、みっともないったら無いのだが(*1)、更に進んで映画や漫画やアニメの主人公や登場人物が美男美女なのは許せない/許さないってのが「ルッキズム批判」という「ポリコレ」なのだそうだ。まあ・・・「呆れた」としか、一寸評しようが無いんだが。

 かかるポリコレの逆は、当然ながら「ルッキズム(=見た目至上主義)」で在ろう。「美男美女だと(何らかの)得をする」であり、「映画や漫画やアニメの主人公や登場人物が美男美女」という状態である。前者については「現実問題として、そりゃ相応にあるだろうぜ。」である(端的に言って、さして気にしては居ない。)。
 後者について想起されるのは、松本零士アニメの「銀河鉄道999」である。この物語の主人公は、星野鉄朗って少年なんだが、原作漫画やTVアニメでは( 「男おいどん」はじめとする松本零士漫画独特の )「ズングリムックリ体型」だったのが、劇場アニメでいきなり( 背丈はさして伸びていない様だが )スラリとした細身の美男子となり、続編の劇場アニメもこのキャラを引き継いだ。ある意味、「ルッキズム(=見た目至上主義)」であり、これに対しては私(ZERO)も「一松本零士ファン」として、異を唱えざるを得ないだろう。

 その点では、恐らくは「ポリコレ主張者」とも同意出来ようし、共闘もこの点だけでは可能であろう。

 だが、「ポリコレ主張者」の「ルッキズム(=見た目至上主義)批判」は、主人公ばかりでは無く、登場人物まで「美男美女は許せない」のであるから、そのポリコレ主張に従って「劇場版アニメ 銀河鉄道999」がリメイクされた日には、主人公・星野鉄朗こそ原作漫画やTVアニメの「ズングリムックリ」になりそうではあるが、「松本零士的大美人」であり極めて重要な登場人物であるメーテル( や、エメラルダス )は「原形を留めぬほどに破壊される」であろう事は、先ず間違いなさそうだ。

 コレは・・・「星野鉄朗がハンサムになった」事以上に許せない原作改変であり、キャラクターであるメーテル自身と原作者である松本零士、ひいては声優を務めた池田昌子様(*2)に対する冒涜に他なるまい。

 而して・・・既に米国などでは猖獗を極めているとも聞く「ポリコレ」は、既にゲームや漫画やアニメや映画の主人公や登場人物の「醜男醜女化」という「成果」を上げ、挙げ句の果てには、日本の漫画が外国でも売れるのは、ポリコレを無視しているからだ。とか言う説まで在るという。
 
 「ポリコレを無視さえすれば、漫画が売れる。」ならば、「ポリコレを無視して、漫画を売る。」のが王道・正道。
 
 「ポリコレを無視している日本漫画を非難する。」ってのは、少なくとも「お門違い」であろう。

 まあ、ポリコレなんて言いがかりに屈している様では、何を如何したって「売れる」とは、私(ZERO)には思えないが、ね。
 

  • <注記>
  • (*1) 因みに私(Zero)自身は、己が見た目を相応に気に入っては居るモノの、美男と言われた覚えはトンと無い。 
  •  
  • (*2) もうかなりの実年齢になられるはずだが、去年ぐらいに「酎ハイ檸檬」のCMで、声優として大復活されていた。アニメなのでメーテルのキャラは「昔と寸分違わない」のだが、池田昌子様は流石にお歳を召して、僅かながらも「オバサン声」となっていたことは、否めなかった。
  •  イヤ、実年齢を考えれば、「オバサン声でも、矢っ張り、しっかり、断固として、メーテルである」事こそ、賞賛すべき、なのである。 
  •  故に、敢えて断言する。メーテルを、不美人とすることは、メーテルの声を演じられた、池田昌子様に対する、冒涜である。と。

 

  • (4)繰り返そう。「ポリコレは、『正しくない』から、ポリコレだ。」


 先述したとおり、本来善悪正邪というのは『道徳の問題』であり、道徳で判断判定すべきモノ。それを「政治的基準」で判定してしまう「ポリコレ」ってのは、本質的・本来的・本義的に、「邪道」であり、恐らくは「邪悪」でもあろう。

 考えるンじゃぁ無い。感じるんだ。理力(force)を感じろ。ってのは、私(ZERO)が余り見ていないSF超大作映画 STAR WARS(*1)の名科白(の一つ)だそうだが、「正しさ」についても、似た様な事は、少なくとも「排すべきではない」だろう。
 

  • <注記>
  • (*1) 全編通じて観た覚えがあるのは、最初の奴と、二作目の「帝国の逆襲」ぐらい。
  •  あの「ライトセーバーのつばぜり合い」ってのを、誰かが真面に「説明」してくれない限り、真面目に観ようとは思えない。「何故、ビームをビームで”受け”られるんだぁ?」