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「すずめ」 アニメ「すずめの戸締まり」主題歌
新海誠ってのは、アニメ監督、なのだそうだ。イヤ、私(ZERO)は別にアニメファンではない(「好きなアニメ」なら、松本アニメはじめ幾つもあるが。基本的に、古いアニメばかりだ。)から、「新海誠監督のアニメ」として結構有名であるらしい「君の名は」「天気の子」等々、どれ一つとして「見た覚えが無い」。ああ、「アニメ映画を見に映画館へ行く」なんて、もう随分やっていないから、「新しいアニメ監督」なんて、知らないのが道理。知っていたら「奇蹟」とは言わぬまでも、相当な偶然だ。
今回の「偶然」は、ラジオだ。新海誠の新たなアニメ映画「すずめの戸締まり」がこのたび目出度く封切られ、映画館で上映される(*1)と言うので、その宣伝を兼ねて(タイアップとかコラボとか言う奴か。平たく言えば「持ちつ持たれつ」ってこと、だろう。)新海誠監督と出演声優とを招いてインタビューするってラジオ番組を聴いたのが、きっかけだ。
因みに、主題歌の歌詞にも関わりそうなので、アニメ「すずめの戸締まり」のあらすじを、ネタバレとならない様にラジオ番組で聞いた範囲で記すと・・・
- <注記>
- (*1) 最近は、斯様に正当正常に「映画館で上映されるのが、初公開」の映画やアニメばかりでも無いから、一寸したこと、ではある。
A. アニメ「すずめの戸締まり」
主人公は、女子高生の「すずめ(*1)」。ある日、廃墟を探すイケメン大学生に出合う。彼を追って廃墟に入ったすずめは、不思議な扉を開いてしまう。実はこの扉は、廃墟に「発生する」魔法の扉で、開くと「向こう側」から災厄を招いてしまう。イケメン大学生はその「廃墟の扉」を閉じてカギをかけて廻る「閉じ師」。ウッカリその扉を開いてしまったすずめは、あれこれあって「子供用の椅子」にされてしまった(*2)イケメン大学生と共に、日本全国の「扉を閉じる」行脚を始める、事になる・・・
- <注記>
- (*1) 仇名ではなく、本名らしい。
- (*2) ウーン、「魔法」とは言え、実にシュールな状況だ。
ま、あらすじだけ紹介しても「何じゃそりゃ?」という所だろう。既に映画は公開されており、レビュー動画もYoutube等にアップされているから、これ以上はそちらを御覧になるか、映画そのものを御覧になるが良いだろう。
先述の通り私(ZERO)は、「君の名は」「天気の子」も見たこと無いし(*1)、新海誠なんて監督の名も「今回初めて意識した」ぐらいだから、この「映画宣伝ラジオ番組」も、さして期待もしてなかった、のだが・・・そのラジオ番組で、この「すずめの戸締まり 主題歌」を聞いて、正直「ぶっ飛んだ」。「度肝を抜かれた」と言っても良かろう。
お聞きになれば判ろうが、この歌は極めて透明な美しい女声によるのだが、その初っ端「歌い出し」は、女声スキャットですら無く、ブレス「呼吸音」なのである。
私(ZERO)は趣味として歌い、ステージにも(ソロではないが)上がったこともあるので、「ブレスとは、聴衆に聞かせないモノ」というある種「常識」というか「固定概念」があった。だから、歌の楽譜ってのは「ブレスのタイミング」が「V印」で表記されているし、表記されてはいるが「そのブレス記号のタイミングでブレスの音を聞かせる」ってのは「御法度」である。息が続かないときは、ブレス表記の無いところで「それこそ、誰にもバレない様に息をする(普通は、吸う)」。これを「カンニングブレス」略称「カンブレ」などと呼んだりするのである。
であると言うのに、この歌は、その「ブレスを聴衆に聞かせる」所から始まり、歌の中でも「ワザとブレスを”聞かせて”いる」ところがある(としか思えない。特に、「この身一つ」と「じゃ足りない叫び」の間のブレスは。
文法的には、普通は、「この身一つじゃ足りない叫び」というフレーズを、ブレスで切ったりはしない。)。ある意味「常識外れ」であり「異端的な歌い方」なのである。
その「ブレスを(思いっきり)聞かせると言う、”異端的な歌い方”」で始まったこの曲は、その後、独特の魅力を持つ女声スキャットにと変じた後、更に間奏があってから、歌詞が、「本来の意味での歌」が始まる、のである。
- <注記>
- (*1) 序でに書けば、アニメ「すずめの戸締まり」自身も、未だに見ていない。「見ようかな?」って気には、なったが。
C.「すずめ」 「すずめの戸締まり」主題歌 歌詞
(筆者注:「(V)」で「聞こえる/聞かせているブレス」を示す。)
https://www.lyrical-nonsense.com/lyrics/radwimps/suzume-feat-toaka/
https://www.youtube.com/watch?v=Xs0Lxif1u9E
https://www.youtube.com/watch?v=2UQA_ejx3G8&t=1662s
1> (V)君の中にある 赤と青き線
2> (V)それらが結ばれるのは 心の臓
3> (V)風の中でも負けないような声で
4> (V)届ける言葉を今は育ててる
5> (V)時はまくらぎ 風はにきはだ 星はうぶすな 人はかげろう
6> なんで泣いてるのと聞かれ答えれる(V) 涙なんかじゃ
7> 僕ら出逢えたことの意味にはまるで(V) 追いつかない
8> この身ひとつ(V)じゃ足りない叫び
9> (V)君の手に触れた時にだけ震えた(V) 心があったよ
10> 意味をいくつ越えれば僕らは辿り (V)つけるのかな
11> 愚かさでいい 醜さでいい
12> (V)正しさのその先で (V)君と手を取りたい
13> (V)思い出せない (V)大切な記憶
14> (V)言葉にならない (V)ここにある想い
15> (V)もしかしたら (V)もしかしたら
16> (V)それだけでこの心はできてる
17> (V)もしかしたら(V)もしかしたら
18> (V)君に「気づいて」と今もその胸を
19> (V)打ち鳴らす
6> (V)なんで泣いてるのと聞かれ答えれる (V)涙なんかじゃ
7> 僕ら出逢えたことの意味にはまるで (V)追いつかない
8> この身ひとつ(V)じゃ足りない叫び
9> (V)君の手に触れた時にだけ震えた (V)心があったよ
10> 意味をいくつ越えれば僕らは辿り (V)つけるのかな
11> 愚かさでいい (V)醜さでいい
12A> (V)正しさのその先で (V)君と生きてきたい
Source: https://www.lyrical-nonsense.com/lyri...
https://www.lyrical-nonsense.com/lyrics/radwimps/suzume-feat-toaka/
原曲
https://youtu.be/m2qWVjOtCCY
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(1)不思議な歌詞
端的に言って、(章題にした通り)「不思議な歌詞」である。一聴一見したところは「支離滅裂」と言っても良さそうだ。が、冒頭のスキャットと同様同種の「不思議な魅力」を持っている(様に思う)。
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1> (V)君の中にある 赤と青き線
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2> (V)それらが結ばれるのは 心の臓
歌詞の歌い出しである「君の中にある赤と青き線」からして、いきなり意味不明だが、これは「心の臓」で「結ばれる」事から、「動脈(赤き線)と静脈(青き線)」であろうと、相応の確信を以て推測出来よう。つまりは「循環器系の話をしている。」と「理解出来る。」
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3> (V)風の中でも負けないような声で
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4> (V)届ける言葉を今は育ててる
だが、次のフレーズでは「風の中でも負けない」「言葉を育てている」そうで・・・「循環器系の話」は何処かへ行ってしまう。
そこはまあ、「循環器系」は「血の巡り」であり、生命力や活力。知力の象徴とも言えるから、「言葉を育てる」エネルギー源となっている、或いは単に「生きとし、生きている事の象徴」と捉えれば、「筋は通る」気はする。
一方で、「育てている言葉」には、後に登場する「思い出せない、大切な記憶」や「言葉にならない、ここにある想い」とも相通じるモノがありそうで、ひょっとすると「同一のモノを指している」とも考えられるから、どうもこの歌を通じて、歌われている人物は「言葉を育て」=「大切な記憶を思い出す」=「此処にある思いを、言葉にする」努力をしている、らしい。
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5> (V)時はまくらぎ 風はにきはだ 星はうぶすな 人はかげろう
続くフレーズである「時はまくらぎ 風はにきはだ 星はうぶすな 人はかげろう」は、独立したフレーズで、背景説明・情景描写と考える位しか、解釈は無さそうだ。それにしても「謎」なフレーズで、記号を使って、「意味の解説」も含めて表して見ると、以下の様になろう。
(1) 時 = 枕木 鉄道の軌道の土台を為す木(コンクリ製もあるよな)
(2) 風 = にき肌 「にぎ肌」とも言う。柔肌の意味(と、今回初めて知った。)
(3) 星 = 産土 その人の生まれた土地、またはその土地神(と、今回初めて知った。)
(4) 人 = 陽炎 陽光による大気の揺らぎ。昆虫の名。儚さの象徴(*1)
如何したって。焦点が当たるのは、上記(4)「人=陽炎」だろう。冒頭の「循環系のイメージ」が無くとも、この歌の指している主体は(死者霊魂と言う可能性も含めて広義の)「人」なのだから。而して、「人」だけ、他の3つとは「異質」と思うのも、私一人ではなかろう。他の(1)~(3)「時、風、星」は、(4)「人」の「依って立つ土台」と考えると「通底するモノがある」と言えそうだ。「枕木、にき肌、産土」という「言い替え」も、そんな印象を幾らか強めている。
但し、強力に、では無い。殊に、「風=にき肌」と言うのは、この二つを「結びつける」のも、「にき肌」を「人の依って立つ土台」と考えるのも、違和感は否めない。
恐らく、その「違和感」は「狙ったモノ」であり、それ故に、上記(1)から(3)に「依って立っている人」は「陽炎」と、「儚いモノの象徴」にされ、「人の命の儚さを強調している」、様に思われる。歌い出しの1>~2>が「循環器系の話」で、人の生命・活力を描いていることとは、「対を為す」と見ても良かろう。
- <注記>
- (*1) 帝国海軍駆逐艦・陽炎級は、無関係だろう。多分。
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6> なんで泣いてるのと聞かれ答えれる(V) 涙なんかじゃ
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7> 僕ら出逢えたことの意味にはまるで(V) 追いつかない
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8> この身ひとつ(V)じゃ足りない叫び
続くフレーズで、この歌の対象(仮に「歌の主人公」と呼ぶことにしようか。)は「泣いている」事が初めて明かされる。それもどうやら、「僕ら出逢えたことの意味」を重大視していることから、「再会ないし回向の意味・意義の大きさに感動しているから」らしい。
さて、このフレーズを聞いたときに、私(ZERO)が「引っかかった」(「琴線に触れた」ではない。)のは、主として二点。一つは「答えれる」という、所謂「ら抜き言葉」であり、もう一つは前述した「この身ひとつ(V)じゃ足りない叫び」の、「普通ならこんな所で息継ぎはしない所で、盛大に聞こえるブレス”(V)”」である。
「ら抜き言葉」の方は、或程度「致し方ない」のかも知れない。本来日本語の歌は「須く、正しい日本語であって欲しい。」と私(ZERO)なんぞは願うが、「正しくない日本語」の一つたる「ら抜き言葉」が、今や普及し一般化している、と言うのは、ある種の「実情」であろう。逆に「ら抜き言葉」を使うことで「強調する意図が在る」との解釈も、成立しそうだ・・・まあ、そうだとしても、正直、「気に入らない」が。
「普通ならあり得ないブレス」と言うのは、「この身ひとつじゃ足りない叫び」というフレーズに対し、ブレスを入れるとしたら、文意からして「足りない」の前であって、「ひとつ」と「じゃ」を区切るブレスというのは「普通ならあり得ない」から。
「当初は”この身ひとつで足りる”と考えて居たが、言い直して、考え直して、ブレスが入った」と言う解釈も一度は考えたが、その先の10>には「辿り(V)つけるのかな」とあり、「辿り」と「つける」の間の「ブレス(V)」は、言い直し/考え直しでは説明しがたい。
そうすると、これは、「この身ひとつじゃ足りない」「辿りつける」を強調する意味で「妙なところにブレスを入れて、目立たせている」と解釈するのが、無難な様だ。
確かに「目立って、強調されている」。だからこそ、ああだこうだと私(ZERO)の様な一視聴者(アニメの方は見てすら居ないが)が邪推を巡らす仕儀となっている。
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9> (V)君の手に触れた時にだけ震えた(V) 心があったよ
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10> 意味をいくつ越えれば僕らは辿り (V)つけるのかな
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11> 愚かさでいい 醜さでいい
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12> (V)正しさのその先で (V)君と手を取りたい
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12A> (V)正しさのその先で (V)君と生きてきたい
この9>~12>も、なかなか「難解」というか、「不思議な歌詞」になっている。どうも、この歌を通じて私(ZERO)がイメージするのは、この「歌の主人公」はアニメの方で「先輩閉じ師」たる「イケメン大学生(だったと思う)」の方で、この歌になっている「出会い」の相手は、「アニメの主人公たる、女子高生すずめ」で在る様に思われる。(まあ、斯様に思うのに、私自身が男性である事が、影響している可能性は、ある。つまりはある種の「自己中心主義」である可能性を、認めねばなるまい。)
まあ、先述の通り私(ZERO)はこのアニメ「すずめの戸締まり」を見ていないので、想像を巡らすというか、邪推を巡らした結果、でしかないのだが。
さて、その解釈に立った上で、この9>~12>は、アニメの主人公たるすずめとの出会い、及び「出会えた運命」の価値を高らかに歌った上、ある種のプロポーズとも言えそうな、12>「君と手を取りたい」で締めている上、同じフレーズを最後にもう一度繰り返して、最後の一文は12A>「君と生きてきたい」と締めている。それも「正しさの先」であり、「幾つもの意味の先」でもあり、「醜かろうが、愚かだろうが、かまわない。」とも断言しているのだから、「相当な強さ」であることは、間違いなさそうだ。
下世話な表現に換言するならば、「惚れてしまえば、痘痕(あばた)も靨(えくぼ)」って奴で、恋愛感情に基づく判断は、理非曲直も美醜も善悪も超越する、と宣言している・・・と、思われる。
つまりは、「強烈な恋歌」であり、ある種「狂気」と言っても良さそうなぐらいだ。
たぁだ、この「解釈」。果たしてアニメ「すずめの戸締まり」に即したモノかは、かなり疑問とせざるを得ない。イヤ、前述の通り私はこのアニメは見ていないのだが、断片的な情報からするとこの「歌の主人公」と私が想定した「イケメン大学生」は、アニメの比較的早い段階で「子供用の椅子」に変身させられてしまうし、相手に「強烈な恋愛感情」を抱いているのは、アニメ主人公の女子高生「すずめ」の方、と思われるから、である。
そうで無ければ、幾ら「イケメン」とは言え、「この辺りに廃屋はないか?」なんて聞いてくる怪しい男の後を追って、廃屋の中まで踏み込む、なんて「ちょっと異常な行動」は、説明しがたい、だろう。
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13> (V)思い出せない (V)大切な記憶
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14> (V)言葉にならない (V)ここにある想い
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15> (V)もしかしたら (V)もしかしたら
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16> (V)それだけでこの心はできてる
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17> (V)もしかしたら(V)もしかしたら
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18> (V)君に「気づいて」と今もその胸を
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19> (V)打ち鳴らす
さて、この歌詞もなかなか「難解」である。何しろ、「心」が、(「もしかして」という限定詞付きながら)「思い出せない大切な記憶」と「言葉にならない大切な思い」だけで「出来ている」というのだから、先ず心穏やかでは居られない。その意味するところは、「己が心が、己では、判らない=思い出せない=言葉にならない」と言う事。ある種の精神異常とさえ、想定でき様。
更には、どうもその「思い出せない大切な記憶」や「言葉にならない大切な思い」を、相手(私(ZERO)の想定では、女子高生すずめ)には「気付いて」と要求し、「今もその胸を打ち鳴らす」と言うのだから、これもかなり強い表現だ。「胸を叩く」通り越して「胸を打ち鳴らす」なのだから、「一寸したこと」と言うべきだろう。
自分では判らない=思い出せない=言葉にならない「自分の心」に、相手には「気付いて欲しい」と言う、矛盾とは言わぬが、相当な「無茶ぶり」であろう。
まあ、そんな「無茶ぶり」=「我が儘」も、「恋愛感情の一側面」では、ありそうだが。
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(2)結論「強烈な恋歌」。その恋愛感情は、狂気に近い。
先述した「惚れてしまえば、痘痕(あばた)も靨(えくぼ)」の喩えにも端的に表れている通り、基本的に恋愛感情ってのは強烈で強力なモノであり、傍から見たら「狂気に見える」どころか「狂気にしか見えない」事すら、ままありそうだ。なればこそ、恋愛というのは詩歌、文学、音楽、歌曲等々芸術の「万古不易」と言えそうなぐらいの「恰好の題材」である。流行歌・歌謡曲の大半は「恋歌である」って状況にも、それは現れていよう。(あ、戦時歌謡とか言うと、一寸毛色が違うのかもなぁ・・・私(ZERO)は芸能ネタには、トコトン疎いんでね。)
今回取り上げた「すずめの戸締まり」主題歌は、劇場公開アニメの主題歌であり、ある種の「流行歌」でもある以上、「恋歌である」事は、異とするには足らないだろう。
とは言え、その「愛の深さ/重さ/壮大さ」は、相当なモノの様であり、章題にした通り「狂気に近い」モノさえ感じる。
と同時に、先述の通り、「他人の恋愛感情は、傍から見れば狂気そのもの」って事を、改めてこの「恋歌」を通じて、感じた次第である。
あ、私(ZERO)自身の恋愛感情が、その例外であるなんて主張する心算は無いぞ。他人に自慢できる様な恋愛経験豊富な訳ではない・・・むしろ「経験値は相当に低い」と思われる私(ZERO)だが、「私(ZERO)自身の恋愛感情が、客観的に見たら狂気に見えるだろう。」事は、十分に予想し、理解も納得もして居るぞ。
「人間なんて、そんなモノよ。」と、な。