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お答えしよう。政治家の国葬は、必要だ。-【朝日社説】政治家の国葬 是非から議論が必要だ &【毎日社説】政治家の国葬 「そもそも必要か】議論を
「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い。」ってヤツ、なのだろうか。朝日と毎日の社説が「国葬不要論」を掲げてやぁがる。
無論、ココで「袈裟」に喩えているのは「国葬(就中、政治家の国葬)」で、「坊主」に喩えているのは、先頃国葬にふされた安倍元首相である。尚、安倍元首相に半世紀ほど先行して吉田茂元首相が国葬にふされており、斯様な「国葬不要論」は「吉田茂元首相の国葬に際しても、あって然るべきモノ」である・・・純粋な「国葬不要論」としては、な。
だぁが、今次一連の安倍元首相国葬をめぐる議論の中でも、「安倍元首相の国葬を止めろ!!!」って主張は、両紙自身の社説を含めてかますびしかったモノの、「そもそも、国葬なるモノは不要である。」って「国葬不要論」は、殆ど聞いた覚え読んだ覚えが無い。それは、両紙が何本も掲げた「安倍元首相国葬反対社説(*1)」についても同様である(*2)。
であると言うのに、今頃&今更、「国葬不要論社説」である。
つまりは、下掲朝日&毎日社説は、ある種の「反アベ社説」と考えた方が良さそうだが・・・果たして、それだけ、だろうか。
①【朝日社説】政治家の国葬 是非から議論が必要だ
②【毎日社説】政治家の国葬 「そもそも必要か」議論を
- <注記>
- (*1) その大半は、弊ブログ記事として掲載され、非難され、揶揄され、糾弾されている。
- (*2) 私(ZERO)が覚えて居るところでは、確かNHKの解説者として「我が国では、国葬は歴史的使命を果たし終えたと考えて居る」ってセンセイが登場した、ぐらい。尤もこのセンセイ、我が国に於ける国葬の歴史を解説してくれたが、「何故、我が国では国葬が歴史的使命を終えたのか?」については一切語らずじまい、だった。
- 私(ZERO)ナンざぁ、「国葬が歴史的使命を終えた状態/国家」ってのが、殆ど想像を絶するのだがね。
- 「国として理想的な完成状態に至り、何人たりとも国葬に価するような大功をあげ得なくなった上、そんな理想状態が未来永劫続くと確信出来るため、"国葬が歴史的使命を果たした" と言える。」ってのが、ほぼ唯一「考えられる状態」なのだが、左様な「理想状態」が現実のモノになるとは一寸想像しがたいし、我が国の現状が左様な理想状態とは、もっと思えない。
(1)①【朝日社説】政治家の国葬 是非から議論が必要だ
①【朝日社説】政治家の国葬 是非から議論が必要だ
https://www.asahi.com/articles/DA3S15463624.html?iref=pc_rensai_long_16_article
2022年11月3日 5時00分
安倍元首相の「国葬」=2022年9月27日、東京都千代田区の日本武道館
【1】 岸田首相が独断で決めた安倍元首相の「国葬」は、賛否両論が渦巻く中で行われ、社会の分断を印象づけて終わった。まずは、その検証と評価が不可欠で、今後に向けたルールづくりに取り組むというのなら、そもそも政治家を弔うのに国葬が妥当なのか、その是非から議論する必要がある。
【2】 国葬を巡り、衆院の議院運営委員会の下に設置された、与野党の代表者による協議会が始まった。政府の説明や有識者の意見を聞いたうえで、12月10日の国会会期末までに「一定の方向性」を出すという。政府も別途、検証を行うことにしており、首相は「一定のルール」を設ける意向を表明している。
【3】 想定されるのは、国会の関与である。首相は今回、「行政権の範囲内」だとして、野党を含む幅広い国民の理解を得る努力をしなかった。国葬そのものには賛同した日本維新の会も、この点を問題視し、議員立法で提出した国葬儀法案に、事前の国会承認と事後の国会報告を盛り込んでいる。
【4】 ただ、国会に諮れば、事足れりという問題ではない。
【5】 安倍氏の「国葬」への賛否が二分されたのは、その内政・外交に対する評価が割れたままであることに加え、説明責任の軽視といった政治姿勢や、森友・加計・桜を見る会などの「負の遺産」に対する批判があってのことだろう。銃撃事件を契機に、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との密接な関係に焦点があたったことも影響したに違いない。
【6】 ことほどさように、政治家の評価は簡単ではなく、党派性を帯びることも避けがたい。与党を中心とした賛成多数で承認されたからといって、世論の分裂は隠せない。単に手続きをどうするかではなく、国葬とは何を目的とし、政治家が対象にふさわしいのか、根本から検討しなければならない。
【7】 国民の「内心の自由」を侵し、弔意を強制するようなものが認められないことは、いうまでもない。政府は今回、地方自治体や教育委員会などに対し、弔旗の掲揚などを求めることはしなかった。もっとも、これは国葬に対する世論の強い反発に押されてのことで、過去の首相経験者の国葬や合同葬では、関係機関などに弔意の表明を求める閣議了解が行われていることを忘れてはならない。
【8】 国葬を決めた身の首相としては、その是非には立ち入らず、ルールづくりにとどめたいのが本音だろう。しかし、数々の疑問や懸念に答えぬまま国葬を実施し、政治不信を高めた責任を自覚するなら、一からの議論を逃げてはいけない。
(2)②【毎日社説】政治家の国葬 「そもそも必要か」議論を
②【毎日社説】政治家の国葬 「そもそも必要か」議論を
https://mainichi.jp/articles/20221030/ddm/005/070/087000c
注目の連載
オピニオン
朝刊政治面
毎日新聞 2022/10/30 東京朝刊 814文字
【1】 安倍晋三元首相の「国葬」について、政府が検証作業に着手した。国会では、国葬のあり方を巡って、与野党の代表者による協議会が近く議論を始める。
【2】 今回の経緯などを徹底的に検証するのは当然だ。だが、今後も実施することを前提に議論を進めるべきではない。
【3】 「そもそも政治家の国葬が必要なのか」という、根本的な疑問に向き合うことから始めなければならない。
【4】 岸田文雄首相は国会に諮らないまま、実施を決めた。安倍氏をなぜ国葬とするのか、最後まで国民に十分な説明ができなかった。
【5】 国葬から1カ月以上が経過しても、疑念は解消していない。毎日新聞の10月下旬の世論調査では、「実施すべきではなかった」との意見が6割を占めている。
【6】 天皇と上皇の「大喪の礼」は法律に定めがある。しかし、政治家の国葬については明確な法的根拠がない。
【7】 政治家は本来、国葬にそぐわない。業績の評価が割れ、党派性を帯びることが避けられない。
【8】 戦後初となった1967年の吉田茂元首相の国葬に対しては、野党などから反発の声が上がった。このため、大平正芳氏以降の首相経験者が死去した際は、内閣と自民党による「合同葬」が主流となってきた。
【9】 安倍氏は、首相在任期間が歴代最長となった半面、強引な政治手法に加え、森友・加計学園や「桜を見る会」などの問題で批判を浴びた。死後に世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との深い関わりが判明したことで、国葬反対論が広がった。
【10】 価値観の多様化が進む中、誰が国葬にふさわしいのか、国民的な合意を得ることは今後さらに困難になるだろう。
【11】 岸田首相は、国葬の対象者について「時の内閣が判断すべきだ」と主張している。国会審議のあり方などのルールを作ることも目指すという。
【12】 だが、形式的に手続きだけ整えても、政権が恣意(しい)的に運用する構図は変わらない。
【13】 政治家の国葬を巡る国民の分断が繰り返されてはならない。今回の教訓を生かすことこそが、政府と国会の責任である。
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(3)抽出、上掲社説が掲げる「政治家の国葬が不要な理由」
例によって、丸数字は社説掲載紙で①が朝日新聞、②が毎日新聞。その後の【】内数字がそのパラグラフ番号だ。
<理由1> 政治家の功績に普遍性はなく、罪過もあるから。①【5】【6】②【7】【9】
<理由2> 政治家の評価は政治的であるから。①【6】②【7】【10】
<理由3> 国民の内心の自由を侵す恐れがあるから。①【7】(*1)
<理由4> 法的に定められて居らず、国会にも諮らなかったから。②【4】【5】
<理由5> 政治家国葬をめぐる国論の分断は、あってはならないから。②【13】
- <注記>
- (*1) この<理由3>は、「曲解」の可能性無しとはしない。が、ココで態々「国民の内心の自由」を持ち出し、今次安倍元首相国葬での政府対応を引用しながら肯定せず、前回の吉田元首相国葬及びその他元首相の合同葬に際して出された「関係機関などに弔意の表明を求める閣議了解」を否定的に引用しているのだから、斯様な「国葬反対理由が、ある。」と判断した。
- 「国葬ならぬ合同葬でも当該閣議了解は出されているのだから、当該閣議了解が"国民の内心の自由を侵害する恐れがある"と仮にしても、問題なのは当該閣議了解であって、国葬では無い。」のだが。
- 一体何を、「忘れてはならない」のだろう、ねぇ。
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1.抽出して、改めて呆れ果てている。お前ら、こんな屁理屈で「政治家の国葬を無くそう」って、図々しいにも、程があろう。
「政治家の国葬が何故必要か?」だと?「国に対する功績に報いるため。」だ。世界的に見れば、政治家に限らず「国に対する功績に報いるための国葬」ってのは、相応に普遍性があるようだ。
米国の元大統領は、当人や遺族の反対が無い限り、民主党共和党に関わらず一律に、国葬にふされる。「合衆国大統領という大任を果たし、合衆国に貢献した。」という考え方、だろう。
上掲②毎日社説が一寸だけ触れている通り(*1)、天皇陛下並びに上皇陛下が、我が国では「大喪の礼」として国葬にふされるのも、やはり「天皇並びに上皇という大任を果たし、我が国に貢献した。」という考え方、だろう。さしもの上掲朝日&毎日社説と雖も、我が国に於ける天皇陛下及び上皇陛下の国葬たる「大喪の礼」までは否定していない・・・「今の所は」だが。
安倍元首相に「先行する」形で国葬にふされたエリザベス二世英国女王も、やはり「女王という大任を果たし、英国に貢献した。」という考え方であろう事に、一寸疑義の余地は無さそうだ。
政治家や王族・皇族以外で言えば、歌手のオリビア・ニュートン・ジョンさんをオーストラリアが国葬にふすると決定したのも、記憶に新しいところだ。私(ZERO)でも名前を知って居るぐらいの世界的な歌手とは言え、「歌手が、国に貢献するのは、どれ程のことか?」には疑義を感じざるを得ないモノの、「オーストラリアが、歌手・オリビア・ニュートン・ジョンさんの同国に対する貢献に報いるために、国葬と決した。」というのには、矢っ張り一寸疑義の挟みようが無さそうだ。
事ほど左様に、「国に対する功績に報いるための国葬」ってのは、相応に普遍性がある。朝日新聞と毎日新聞は認めずとも、「世界が認めている」と言っても、過言では無さそうだぞ。
- <注記>
- (*1) 寧ろ、「大喪の礼」として「法律に定められた国葬」の事例として引用され、「政治家の国葬は、法律に定められていない。」事を強調する手段とされている。
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<理由1> 政治家の功績に普遍性はなく、罪過もあるから。
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☆<理由2> 政治家の評価は政治的であるから。
「国に対する功績に報いるための国葬」って、世界的には常識レベルと言えそうな原理原則に依って立つならば、「政治家の国葬に対する反対理由」の本家本元本丸は、上記の<理由1>と<理由2>であり、それ以外の理由は、ある意味「枝葉末節・些事・小物」である、と言えそうだ。また、上掲毎日&朝日社説が改めて触れている「モリカケ桜の類い」は上掲<理由1>を強調している。
先ず<理由2>から行こうか。そもそも、「政治家の、政治家としての我が国に対する功績」は、「政治的なのが当たり前」で、「政治的でなかったら、奇蹟に近い。」であろう。
更には、その「政治家としての功績を、国葬に価する、と評価する」事も「政治的であること」は一寸免れようがない。「引退した政治家で、出身政党が雲散霧消している。」なんてことでも無い限り、「政治家の、政治家としての我が国への功績を、国葬に価すると、評価する」事と、「その評価が政治的であること」とは一体不可分であろう。
で、だ。根源的な問いになるのだが、「政治家としての功績が、国葬に価するという評価は、政治的である。」と言うことが、「政治家は、国葬にはしない」理由に、なるのだろうか?
「国葬に価すると言う評価」が「政治的である」とほぼ同等に、「国葬に価しないと評価する」事もまた「政治的である」筈ではないか?
「国葬にする/しない、と言う判断/評価が、政治的である。」として、「故に、政治家は全て国葬とはせず、国葬の”政治的中立”をはかる」とするならば、それは、「政治家の功績を蔑ろにした、悪平等主義」ではないか?「国葬そのものが、国民の法の前の平等に反している」とか言う主張(*1)(主として、憲法学者の説、らしい。流石は「半分(以上)気違い」だな。)にも、相通じるモノがあるが。
言い替えようか。政治家が、政治家として、国葬に価する程の大功を為すと言うことは、「あり得る事」だろう。例えば、「戦争を勝利へと導いた(例 英国のウインストン・チャーチル)とか、逆に「戦争を美事に回避した(*2)」とか。
左様な「政治家の大功」に対して、「その大功を為した政治家を、国葬にふすること」が、よし「政治的である」、例えば、「出身政党の選挙に有利に働く」としても、「国として、国葬に付することで、その大功に応える」事に比べたら、些事も良いところでは無いか。
未来の「国葬にふされる者」=「我が国に対して大功を為す政治家」を涵養するためにも。信賞必罰は、国の基本であろうが。
無論、それを「些事とは考えない」者も居ろうさ。だが、少なくとも、「些事と考える者(例えば、私(ZERO)だ。)」も居る以上、「政治的だから、政治家は国葬禁止」というのは、少なくとも偏狭であろう。偏狂に、近いと思うぞ。
<理由1>について言うならば、「人間の評価なんて、死後百年経たないと定まらない(それでも、定まらない、場合もある(*3)。)」と「罪過の無い人間など、居ない。」の二言で、大凡片付いて仕舞いそうだ。「死後百年経たねば評価は定まらず、罪過もあるに違いない、人間」の中から、「我が国に大功を為した」と認めたからこそ、「国葬にふする」のである。「評価が定まらない」のも、「罪過がある」」のも、人ならば当然であろう。
従って、<理由1>「政治家の功績に普遍性はなく、罪過もあるから。」と言うのは、「政治家の国葬を禁じる理由」とは、ならない。
ヒョッとして、百年、千年と時を経て、価値観が大きく変わり、「あの時、あんな政治家を国葬にするなんて、当時の日本人は何を考えて居たんだ!」って事に、ならぬとも限らないだろう。だが、今現在に生きる我等には、百年後・千年後の価値観なんて、判る訳も無い。我等は、我等の価値観で、我等の時代に於ける「政治家の大功を認め、国葬にふする」しか出来ないモノであり、その基準が「万古不易ではない」からとて、「如何なる政治家の大功をも、国葬に価するとは認めず(*4)、政治家の国葬を禁じる」なんてのは、本末転倒とは言わぬまでも、角を矯めて牛を殺そうって理論だろう。
- <注記>
- (*1) この主張に基づくならば、国葬はおろか、内閣葬も自民党葬も合同葬も県民葬も、「特別な葬儀」の殆どは「法の前の平等に違反する、日本国憲法違反」になりそうだ。
- ああ、社葬すら、危ういなぁ。
- (*2) 第二次大戦が欧州で勃発しなかったら、チェンバレン首相とかは、「戦争を美事に回避した」として国葬に価した、かも知れない。
- (*3) 例えば、「徳川家康の評価は、定まった。」だろうか?或いはもう一寸新しいところで、「乃木大将の評価は、定まった。」だろうか?
- 特に後者は、「大半が大筋合意」と言うのさえ、無理がありそうだ。
- (*4) 「日本での国葬は、歴史的使命を終えた」説ってのは、この延長上にある、のだろう。
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(b)<理由3> 国民の内心の自由を侵す恐れがあるから。
先行して突っ込みも入れているが、共産党なども唱えるこの「国葬反対理由」は、一見一聴「尤もらしい」が、実は「何を言っているのか、サッパリ判らない」のである。
確か、日本共産党は安倍元首相国葬の当日に、(流石に国葬会場たる武道館では無かったが、都内で)国葬反対集会を開き、「国葬は内心の自由を侵害する」と抜かし、国葬会場での黙祷の時間にあわせて叫んだり楽器を鳴らしたりして「国葬反対を表明表現」していた。似たような事をした者は他にも居たし、国葬会場たる武道館付近にも居たそうだ。甚だしきに至っては、安倍元首相を銃撃し殺害したテロリスト山上に似せたコスプレーヤーまで、登場したそうだ。
で、共産党委員長からテロリストコスプレーヤーまで、かくも「行動の自由」を保障され、「謳歌している」と言っても良い状態で、「共産党委員長やテロリストコスプレーヤーの内心の自由を、安倍元首相国葬が侵害している。」と主張出来るのは、一体どんなロジックなのか、私(ZERO)なんぞには全く想像出来ないし、理解の欠片も出来ない。「理解するヒント」すら、見出しがたい。
そもそも、「弔意を強制する国葬」とか、「国民の内心の自由を侵害する国葬」なんてのは、「強制的に動員して国葬に参列させ、国葬対象(今回で言えば、安倍元首相だな。)の肖像写真の前で跪いて接吻させる(「踏み絵」の逆、だな。)」と言う、「北朝鮮か中共位でようやく出来そうな(ロシアですら、難しそうな)状態」ぐらいしか、私(ZERO)には想像しがたい。
言い替えるならば、「国民の内心の自由を侵す恐れがあるから、政治家の国葬反対」と言うのは、一見一聴「尤もらしい」が、我が国においては「タダのイチャモン」にしかならない。
「内心の自由」というモノは、覚悟を決めた者に対しては、相当なことをしない限り「侵しがたい」モノである。一方で何しろ「内心・内面の話」であるから、「"国葬”って文字を見ただけ/読んだだけで、内心の自由が奪われるぅぅぅッl!!」って主張もまた、可能である。上掲毎日&朝日社説のように、な。
で、だ。我が国で保障されるべき「内心の自由」がどの程度であるかには議論の余地が在りそうだが、少なくともそれは無制限無限大では無いだろうし、後者のような気違いに「内心の自由を保障する」モノでは無いだろうよ。(ってぇか、後者のような気違いに「内心の自由を保障する」って状態は、一寸想像を絶するんだが。)
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(c)<理由4> 法的に定められて居らず、国会にも諮らなかったから。
「吉田茂元首相国葬は、閣議決定のみで実施された。」し、「安倍元首相国葬は、国事行為の一つとして、閣議決定で実施した。」と言うのは、既に何度か記事にしたところ。国葬の費用を「閣議決定で支出出来る、予備費から支出した。」のも記事にした。吉田茂元首相国葬は、「全くナンの法的根拠が無くても、国葬実施出来た」実績であるし、安倍元首相国葬は「法的解釈の範疇で、国葬実施出来た」実績である。
「それは”悪しき実績”で、法的に問題だ。」と言うならば、少なくとも吉田茂国葬の際に主張すべきであった、筈だ。国葬令の復活を求めるなり、「国葬の是非は国会で審議する」と閣議決定するなり、手はあったろう。
左様な主張を少なくとも継続的に行わず、左様な手を取ることも無く、今次の安倍元首相国葬ににタダ「国葬反対」を唱えただけでその実施を阻止すら出来なかった、その同じ理由・根拠で、「政治家の国葬反対」も出来る=「政治家の国葬反対理由として有効である」なんて、何故思えるのかね?
ああ、世論調査の結果で、「安倍元首相国葬は、実施すべきでは無かった。」ってのが6割だか7割だかの多数派だから、同じ理屈で騙せる国民は多かろうって、算段か。
国民も、馬鹿にされたもんだな。
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(d)<理由5> 政治家の国葬をめぐる国論の分断は、あってはならないから。
今回抽出した「政治家の国葬反対理由」の中で、一番呆れ返ったのが、この毎日新聞が掲げた<理由5>「政治家の国葬をめぐる国論の分断は、あってはならないから。」である。
「国論の分断」?「国論の分断」??「国論の分断」だとぉ???あ・れ・が・かぁ???????!!!
もとい、言い直そう。今次「安倍元首相の国葬」に対して、賛否両論があったのは事実だ。賛否両者の対立も、無かったとは言わないさ。だが、賛否デモ隊同士が「もめた」と言う事例すら、我が国では寡聞にして聞かない。
第一、我が国は民主主義を標榜しており、言論の自由も思想信条の自由も保障している。賛否両論、あって当然であり、比率の程度は在れども「国論は分断されている」のが常態である。その賛否両論者同士が武力衝突して流血の事態にでも至らない限り、「国論の分断」なぞ、恐れるに足らない。否、寧ろ、「民主主義の健全性を証するモノ」として、歓迎すべきではないか。
逆に、「国論は常に統一不可分とされているべきだ!」って主張の恐ろしさを、一寸は考えてみてはどうか。
大凡この世は、賛否両論あるのが当然。「無い」のは不自然或いは奇蹟言うモノだ。賛否の比率こそ様々だろうが、如何なる正論や理想論であろうとも、反論、反対論、否定論、非難批判等は、イチャモンや偏屈へそ曲がりを含めて、「ある」のが当然。「無い」のは極めて不自然であり、「無いはず」なんてのは、思い込み以外の何物でも無い。
であるならば、大宰相たる吉田茂元首相や安倍晋三元首相の国葬に限らず、「政治家の国葬に対する反対論」は、あって当然。「無い」のは極めて不自然である。全国民レベルの洗脳思想統制でもしない限り、「政治家の国葬に対する反対論」は、今後もあるだろうし、「ある」のが当然。否、寧ろ、人が人であり、自由意志を持つ存在である限り、「あるべき」だろう。
「国論の分断」を理由として、「政治家の国葬を禁じる」事が出来るのならば、ありとあらゆる施策政策は、禁じられるだろう(*1)。いや、寧ろ、「国論を分断しない」即ち「万人が誰一人例外なく賛成する(或いは、反対する)」施策政策なんて、何があるってんだよ。「核兵器廃絶」だって「貧困撲滅」だって「世界平和」だって、「誰一人例外なく賛成する」と思うのは、傲岸不遜というモノだぞ。
- <注記>
- (*1) そう言えば、昔々、美濃部ってバカ都知事が「反対者が一人でも居れば、橋は架けない。」とか抜かしていたな。毎日新聞とは、同類・同種のバカなのだろう。
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(e) 所で、「我が国では、政治家の国葬禁止」となると、我が国の国葬は「大喪の礼」だけになりそうだんだが。
即ち、天皇陛下と上皇陛下以外は、「我が国では国葬にならない」って状態になるんだが、朝日新聞&毎日新聞は、それを是とするのかね?
或いは・・・左様な状態に陥れた上で、「大喪の礼は、国民の平等を明記した日本国憲法違反だぁぁっ!」と、始める気だろうか。既に憲法学者共(の一部?)が始めている様に。
だとすると、上掲朝日&毎日の「政治家国葬反対社説」は、「単なるアベガー社説」と、侮る訳には行かなくなる、な。