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余りに単純な「経済政策の使命」ー【週刊朝日】【”安倍政治”の功と罪】浜矩子「安倍政権は経済政策の”使命”からかけ離れていた」
浜矩子って人は、弊ブログでも何度か取り上げている。朝日とNHKのお気に入り「経済学者」で、安倍晋三元首相の経済政策「アベノミクス」について、その当初の頃より「アホノミクス」と呼び、「必ず失敗する」と言い続けてきた・・・第2次安倍政権発足から数えると、その「アベノミクス」は約10年ほども続いており、この間ずっと浜矩子女史は「失敗する」と言い続けて来た。
が、「"失敗する"と、言い続けて来た。」と言うことは、「未だアベノミクスは、衆目の一致する大失敗には至っていない。」と言うことであり、「衆目の一致する大失敗に至る前に、第2次安倍政権は最長期政権を終了し、更には安倍元首相が凶弾に倒れて幽明境を異にするに至っている。」のだから、少なくとも「アベノミクスという経済政策には、一定の評価が出来る」筈だと思うのだが、経済学者の浜矩子センセイには、左様には「見えない」らしい。
と、言うか、後掲記事は、経済政策としてのアベノミクス評価と言うよりは、「アベノミクスの動機が問題」である、らしい。
弊ブログの先行記事にて、「経済学的狂人」と断定した浜矩子センセイが、またぞろ「アベノミクス批判」をしたところで、大して実のある議論は期待しがたいが、「浜矩子センセイの頭の中がどうなっているか」には少々興味があり、下掲週刊朝日記事を読んでみた。
経済学的狂人ー【AERA】浜矩子「『経済安全保障』によって経済の円と安全保障の円が交わってしまう | 日出づる処の御国を護り、外国までも率いん心 (ameblo.jp)
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【週刊朝日】【”安倍政治”の功と罪】浜矩子「安倍政権は経済政策の”使命”からかけ離れていた」
【週刊朝日】【”安倍政治”の功と罪】浜矩子「安倍政権は経済政策の”使命”からかけ離れていた」
【“安倍政治”の功と罪】浜矩子「安倍政権は経済政策の“使命”からかけ離れていた」
https://dot.asahi.com/wa/2022080300014.html?page=1
安倍晋三
2022/08/04 07:00
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浜矩子さん/同志社大学大学院教授
浜矩子さん/同志社大学大学院教授
“安倍政治”の功と罪…。政治家としての評価が分かれる安倍晋三元首相について、同志社大学大学院教授の浜矩子さんに聞いた。
【写真】岸田文雄首相(左)と安倍晋三元首相はこちら
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「国葬」を辞書で引けば「国家の大典として国費で行う葬儀」と定義されています。経済政策に関していえば、安倍氏が残したものは、この対応に値するとは思えません。
経済政策の使命は次の二つ。(1)経済の均衡保持と(2)弱者救済です。(2)があるから(1)がある。なぜなら、経済の均衡が崩れると、最も深く傷つくのが弱者だからです。
経済均衡がデフレ方向に崩れれば、賃金が下がり、たちまち弱者の生活は行き詰まってしまう。それが安倍政権下の状況でした。逆にインフレ方向に均衡が崩れれば、真っ先に物価が上がり、やはり弱者が困窮する。これが、安倍政権の流れをくむ岸田文雄政権における日本の現状なのです。
かくして安倍政権の出現以来、経済政策はその使命を果たしてきませんでした。それは安倍氏が、経済政策を彼の政治的野望実現のための手段として扱ったからです。
本人の言葉を借りれば「私の外交・安全保障政策は、アベノミクスと表裏一体であります」(2015年4月、米国笹川平和財団の講演)。これはいけない。「表裏一体」という言葉を使うなら、経済政策の二つの使命を指すべきです。経済政策が他の何かと表裏一体であってはいけません。
しかも安倍氏の外交・安全保障政策の眼目は「戦後レジームからの脱却」にありました。戦後が嫌なら、戦前に戻るしかない。そこは大日本帝国の世界。つまり安倍氏は“21世紀版大日本帝国”の構築をもくろんでいたともいえます。彼の経済運営が目指したのは、新大日本帝国の大きく強い経済基盤づくりでした。
だからこそ、彼は日本を「世界で一番企業が活躍しやすい国」に仕立て上げようとしました。「働き方改革」もそこにつながっていた。日本銀行を政府の子会社と位置づけ、財政資金の供給マシンと化すことを求めたのも、強く大きな経済基盤づくりのため。いずれも経済政策の本来の使命からあまりにもかけ離れていた。
「アベノミクスの継承」を確認した岸田政権において、この枠組みが大きく変わるとは思えません。重苦しい空気の中で、「国葬」に向かって時が刻まれていきます。(寄稿)
※週刊朝日 2022年8月12日号
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「富国強兵」を「経済政策の使命」としない「信仰心」
矢っ張り浜矩子センセイは、「学者では無く宗教家」であり、「学者としては気違いのレベル」と言うべきだろう。
1> 経済政策が他の何かと表裏一体であってはいけません。
ってのは、先行記事「経済学的狂人」で取り上げた浜矩子センセイの「経済の円と、安全保障の円は、別物であるべきで、交わってすらならない。」と言う「信仰」と相通じるモノがある。否、先行記事で認められた「信仰」そのものと同じぐらいに、現実離れしているな。
大体、「経済政策の使命」とやらを、
2> 経済政策の使命は次の二つ。
3> (1)経済の均衡保持と(2)弱者救済です。
4> (2)があるから(1)がある。
5> なぜなら、経済の均衡が崩れると、最も深く傷つくのが弱者だからです。
として、実質「弱者救済」だけを「ほぼ唯一絶対の経済政策の使命」としているが、普通に考えれば「(3)経済振興」、更には「(3A)富国強兵」も、「経済政策の使命」の筈であろう。それが、全くと言って良いぐらいに、無視されている。
「本当に、経済学者かよ?」という突っ込みは、「いや、宗教家だから。」と、返せそうである。つまりは「経済学」と銘打って、ある種の理想「弱者救済を至高の使命とする存在」と崇め奉っている、らしい。だから「経済政策の使命」も実質「弱者救済」のみとなり、「経済振興」なんて触れもしない。先行記事では「経済制裁も、戦略的意図を持っての貿易管理も、認めないし、「安全保障の手段としての経済」も認めなかった(*1)。今回の記事ではさらに「信仰のレベルが上がった」のか、「弱者救済こそ経済政策の使命」と断定断言して憚らない。
なるほど、「アベノミクスは失敗」なんだ、浜矩子センセイの「経済学」って宗教では。アベノミクスの使命は、基本的に「経済振興」だから、な。
あ。だけどアベノミクスの成果には、「失業率低下」ってのがあるんだが、此って、「弱者救済」になってないのかな?「経済振興を動機にしているから不純」って事かぁ?そりゃぁどう考えても、学問でも政策でもないぞ。
別に「浜矩子流経済学」って新興宗教があっても信じても良いけどさ。「経済学」って「学問面」だけは止めて欲しいモンだ。更に言えば「浜矩子流経済学」教ってのは、「反アベ教」とか「アベガー教」とかの、分派のような気もするぞ。
あ、それでかぁ?AERA巻頭エッセイとは異なり、
6> 政治家として評価が分かれる安倍晋三元首相について、同志社大学大学院教授の浜矩子さんに聞いた。
として、「経済学者」って肩書きも出さなければ、「経済学的視点」とも、言わないのは。朝日ですら、浜矩子センセイを、「経済学者とは認めがたくなった。」と言うこと、ではないかな。
- <注記>
- (*1) なぁんと恐るべき事に、第2次大戦後間もなく人類は、「経済と安全保障を分離する」と「誓った」らしいのである。浜矩子センセイ世界では。