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経済学的狂人ー【AERA】浜矩子「『経済安全保障』によって経済の円と安全保障の円が交わってしまう」
敢えて断言しよう。「日本の憲法学者は、半分気違いだ。」と、私(EROはほぼ確信している。『日本の憲法学者の半数が気違い』なのか、『個々の日本の憲法学者が全員半分気違い』なのか、或いはその中間(即ち、「完全に正気の日本の憲法学者も、存在する。」可能性がある、のか。)なのかは、議論の余地があるが、『日本の憲法学者は、半分気違いだ。』とは、断定断言出来てしまう。
そんな断定断言を確信を持って出来てしまう理由は、日本の憲法学者が、日本国憲法を、学問の対象では無く、信仰の対象にしている(としか思えない)から。「自分の倫理は合憲だ。」とか断言してしまうヤツバラを、「憲法学者として正気」とはとても思えない。如何に崇高な理想が日本国憲法に描かれていようとも(*1)、たかだか法律の親分で国家の骨格を決める規定でしかない憲法如きが、個々人の倫理を規定するなんざぁ、正しく「国家による内心の自由の侵害」である。それを嬉々として受け入れるなんざぁ、気違いとしか言いようが無い。ああ、「信仰」って言い方もありそうだが、信仰ってのは一面ある種の「気違い」だから、大差は無い。
大体、憲法学に限らず、「人文科学は、何処まで科学か?」と言うのは、私(ZERO)のような理系人間が抱かざるを得ない「大いなる疑問」なのである。であるならば、「経済学者が、学者として胡散臭い」のも、異とするに足らない。下掲するAERA巻頭エッセイを書いている浜矩子女史って経済学者も、また一段と胡散臭いエッセイを書いている。
- <注記>
- (*1) 無論、私(ZERO)のような「異教徒」は、日本国憲法に「崇高な理想」なんて、全く見出せない。
【AERA】浜矩子「『経済安全保障』によって経済の円と安全保障の円が交わってしまう」
浜矩子「『経済安全保障』によって経済の円と安全保障の円が交わってしまう」
https://dot.asahi.com/aera/2022072500050.html?page=1
https://dot.asahi.com/aera/2022072500050.html?page=2
経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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5月11日に日本の「経済安全保障推進法」が成立した。「経済安全保障」とは一体何だろう。様々な定義があちこちから提示されている。だが、何とも判然としない。
「経済安全保障」は「経済の」安全保障なのか。「経済による」安全保障なのか。上記の「経済安全保障推進法」は、その正式名称が「経済施策を一体的に講ずることによる安全保障の確保の推進に関する法律」である。この名称からすれば、「経済安全保障」は明らかに「経済による安全保障」だ。これで本当にいいのか。
安全保障は基本的に軍事外交上の概念だ。このような概念のために経済を手段化していいのか。筆者には強い違和感がある。経済の円と安全保障の円が重なる部分が経済安全保障領域なら、そこには何があるのだろう。何かがあっていいものだろうか。
第2次世界大戦が終結した時点で、国々は、二度と再び、経済取引と経済関係の世界に戦略性を持ち込まないことを誓ったはずである。領土拡大のために経済同盟を締結する。天然資源確保のために経済協定を取り交わす。市場の囲い込みのために経済連携関係を形成する。こうしたやり方が排他的経済ブロックの出現につながり、この展開が武力衝突をもたらす緊張関係の温床となる。この道には決して再び踏み込まない。そう決意したはずである。
それなのに今、戦略的観点から経済を手段化する方向に動いていいのか。「相互依存の武器化」などという何とも陰惨で物騒な言葉まで、飛び出すようになっている。相手が我が国からの物資の供給に依存しているなら、そのことを恫喝(どうかつ)材料にして、相手から譲歩をもぎ取る。それが「相互依存の武器化」なのだという。なんとも悍(おぞ)ましい話だ。
「経済安全保障」という言葉を我々の会話の中から追放したい。つくづくそう思う。経済活動は人間の営みだ。経済活動は人間を幸せに出来なければならない。その状態を保つために全力を傾ける。そのことを「経済安全保障」というなら、まだいい。それでも、経済を軍事用語と結びつけることには抵抗がある。経済の円と安全保障の円は、やはり交わってはいけないのだと思う。
浜矩子(はま・のりこ)/1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。前職は三菱総合研究所主席研究員。1990年から98年まで同社初代英国駐在員事務所長としてロンドン勤務。現在は同志社大学大学院教授で、経済動向に関するコメンテイターとして内外メディアに執筆や出演
※AERA 2022年8月1日号
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2.馬鹿げた「経済学」。いや、学問と言うより、宗教。
単刀直入に言おう。上掲コラムを書いた浜矩子女史も、矢っ張り「気違い」なのでは無かろうか。何故ならば、「経済学を、学問の対象では無く、信仰の対象としているから。」。
先ず、タイトルからして奇妙である。「『経済安全保障』によって経済の円と安全保障の円が交わってしまう」と言うタイトルの前提は、「「経済の円」と「安全保障の円」が別物であり、「交わってはならない。」」という考え(思想と言うよりも、信仰)である。
円は、円である。日本の通貨だ。円は、円であって、「経済の円」も「安全保障の円」も、日本通貨たる円の一側面を表す言葉。言うなれば、「経済の円」と「安全保障の円」とは、「コインの両面」であり、「交わってはならない」どころか「一体不可分」と考えるのが、普通だろうに、上掲コラムで浜矩子女史は、
1> 「経済安全保障」は明らかに「経済による安全保障」だ。これで本当にいいのか。
2> 安全保障は基本的に軍事外交上の概念だ。
3> このような概念のために経済を手段化していいのか、筆者には強い違和感がある。
と先ず、「安全保障の円」という「円の一側面を否定」してしまった上で、
4> 第2次世界大戦が終結した時点で、国々は、
5> 二度と再び、経済取引と経済関係の世界に戦略性を持ち込まない(*1)ことを誓ったはずである。
6> 領土拡大のために経済同盟を締結する。天然資源確保のために経済協定を取り交わす。市場の囲い込みのために経済連携関係を形成する。
7> こうしたやり方が排他的経済ブロックの出現につながり、この展開が武力衝突をもたらす緊張関係の温床となる。
8> この道には決して再び踏み込まない。そう決意したはずである。
と言う、私(ZERO)に言わせれば「驚天動地」に近いユニークな「歴史観」を開陳している。そりゃ、「歴史観は、人の数だけある」ってのは、私(ZERO)の持論ではあるが、それにしても「彼我の歴史認識の乖離」は、目も眩むばかりである。
何方かご存知、ないし心当たりでもあれば伺いたいのだが、「国々が二度と再び、経済取引と経済関係の世界に戦略性を持ち込まないと誓った。」というその「誓い」とは一体何で、何時、どの国々が「誓った」モノなのか?それは、条約なり合意なり共同宣言なりに成文化されているのか?その「誓い」が為されたのは「第2次大戦終結時点」らしいが、その後に国となった国も数多ある(大きな所では、中華人民共和国がある)。そうした「後発新興国」は、何時どの時点でどうやってその「誓い」に賛同・参加したのか?ああ、「第2次大戦終結時点」では「連合軍占領下に在りそうな我が国・日本」が左様な「誓い」に参加した時点も、是非にも御教示願いたいな。
左様な「誓い」が、第2次大戦の遠因ともなったブロック経済を否定し、ある種の理想を目指している、と言うのは理解出来る。だが、その「誓い」に従うならば、ありとあらゆる経済制裁は禁じられるはずだし、政治的・戦略的意図を持った「戦略的」貿易規制も、出来ないはずだ。だが、対北朝鮮をはじめとして経済制裁は数多実例があり、対共産圏貿易規制たるCOCOMなども厳然として存在する。蛇足ながら付け加えるならば、対北朝鮮経済制裁も、COCOMも、我が国は参加している。まさか、経済学者の先生が、知らぬ訳ではあるまい。
寝言は、寝て言え。
通貨について寝言を公言出来てしまうような経済学者は、「経済学者としては気違い」とでも、評する他に、何が出来ようか。
何しろ上掲AERA誌コラムは、経済学者・浜矩子女史が、「時事問題に経済学的視点で切り込みます」と(いつも通りに)銘打たれて書かれた「巻頭コラム」なのである。
まあ。こんなコラムが巻頭を飾っているようでは、そりゃAERA誌は、売れんわなぁ。
<注記>
(*1) って事は、「経済戦略」とか「経営戦略」って、言葉自体が「御法度・ご禁制の品」の筈、なんだが・・・