• そりゃ「礼儀の教育」というモノだ。ー【東京社説】半旗掲揚の依頼 弔意の強制は厳に慎め

 「安倍元首相の国葬に反対しているヤツバラは、真面な人間ではないのではないか?」っていう疑義は、以前から在る。典型的なところでは「原爆忌」とも呼ばれる8月6日の「広島原爆投下被害者を追悼する式典」に対し、式場への乱入こそ(流石に)しなかったモノの、付近で大音声で「国葬反対」を唱えたデモがあげられよう。同デモは、「国葬反対」をとなえるばかりか、安倍元首相(*1)は、殺されて当然。とまで公言・断言してしまう愚挙にして暴挙を為している。人非人の所業であり、普通の人間では無さそうだ。

 私(ZERI)が、かかる所業を「人非人」「真面な人間ではない」と断定断言するのは、以下の理由による。

 ① 被爆者を追悼する式典を妨害し、「目立つための手段」として利用しているから。
 式典そのものに賛否があるのは構わない。が、同デモは、「追悼式典に反対すら表明せず、タダ妨害して、目立つための手段としている。」
 諄いようだが、追悼式典である。死者を追悼する式典である。式典に反対の者であっても、歌舞音曲は遠慮するのが常識というモノで在ろう。そんな追悼式典を、「自分たちが目立つために」大音声で妨害して見せているのである。人非人の所業以外の、何であろうか。

 ② 死者としての安倍元首相を、冒涜しているから。
 安倍元首相に賛否があるのも構わない。同デモは「明確に安倍元首相を否定している」ので、その点は上記①よりは「マシ」ではある。
 だが、「死んでしまえば仏様。」ってのは、普通の日本人の感覚である。憎き政敵であろうと親の仇であろうと、「くたばったぜ!やった!!ラッキー!!!」とは、少なくとも公言しないのが「真面な人間」であり、「普通の人間」だ。それを、殺されて当然」と明言断言する。それも、実際に「殺された」安倍元首相の、個人的葬儀こそ済んでは居るが、非業の死から一月も経ないうちに、だ。
 無論、上記①の所業は、「死者としての被爆者すら、冒涜している」のだから、「憎き政敵」であるらしい安倍元首相の死を冒涜するぐらいは、朝飯前なのだろう。

 つまりは人非人の二乗だな。

③ 間接的に(でも無いか)テロを肯定しているから。
 我が国の歴史を紐解けば、2・26事件、桜田門外の変(井伊大老暗殺)、大化の改新等、「テロで時代が動いた」事例は相応に在る。が、そのテロが肯定されたのは、井伊大老暗殺の桜田門外の変と・・・「忠臣蔵」となった吉良上野介暗殺、ぐらいだろう。あ、お隣の韓国は、伊藤博文暗殺犯の安重根を英雄扱いしていたりするが、それは「韓国人は今や日本人ではないから」であろう(*2)。
 さはさりながら、21世紀の今日において、「テロの肯定」と言うのは、まっとうな人間の所業では無かろうし、それを公言するとは、論外に近い。

 以上①から③の理由がある「安倍元首相国葬反対デモ」にしても、先行記事にもしている「安倍元首相国葬反対論の杜撰さ」からしても、「安倍元首相国葬に反対を唱える者」は、「人間じゃぁ無い」と言うと言い過ぎかも知れないが(言い過ぎでは無い、可能性も、勿論あるだろう。)、「ろくなモノじゃぁ無さそうだ。」とは、断言出来そうだ。
 ああ、「ろくなモノじゃぁ無い」には、色々レベルはありそうだがな「タダ単に、ロクに考えもせず流されているだけ」の奴から、「安倍元首相を悪魔か何かだと信じ込んでいるアベガー信者」まで、な。

 喩え、「世論調査によって、過半数が”安倍元首相国葬に反対”と回答した」とて、「世の中の大多数が"ろくなモノじゃぁ無い"可能性」だってあるのだから、大して説得力は無い。

 話が大部脱線したが、下掲するは東京新聞社説。国葬反対」も「国葬を国会で説明しろ/追及させろ」も、殆ど不発に終わってしまったようなので、今度は弔意を強制するな!にした、らしいんだが・・・ 


 

  • <注記>
  • (*1) なぁんて、ご丁寧な呼び方は、していないだろうな。 
  •  
  • (*2) 所謂「日帝強占期」には、韓国含む朝鮮半島は日本の一部であり、それ故に帝大たるソウル大学も設立された。 




(1)【東京社説】半旗掲揚の依頼 弔意の強制は厳に慎め

  • 【東京社説】半旗掲揚の依頼 弔意の強制は厳に慎め

  • 半旗掲揚の依頼 弔意の強制は厳に慎め

https://www.tokyo-np.co.jp/article/194708?rct=editorial

 

 

2022年8月9日 07時11分

 

 七月十二日に行われた安倍晋三元首相の葬儀に合わせ、東京都など八つの教育委員会が国旗の半旗掲揚を学校に求めていた。政治的中立が求められる教育現場への弔意の強制にほかならない。政府が九月二十七日に予定する「国葬」では、各学校に対して弔意を強制しないよう重ねて求める。

 都教委は半旗を求める文書を都立学校全二百五十五校に送り、複数校が掲揚した。東京に加えて山口県や川崎市、仙台市、北海道帯広市、大阪府吹田市、兵庫県三田市、福岡市の合わせて七教委が同様に半旗の掲揚を促していた。

 都の担当者は本紙の取材に「事務連絡をしただけで、掲揚は各校校長に任せた」と弔意の強制を否定しているが、こうした依頼は子どもや教師の内心の自由を侵す行政手法と言わざるを得ない。

 人の死をどう悼むのかは、憲法が保障する思想や良心、信教、表現の自由に基づいて強制されるべきではない。行政の上位機関が半旗の掲揚を依頼すれば、半ば強制と受け取られて当然だ。安倍氏の業績に対する評価は歴史的に定まっていないにもかかわらず、学校で半旗が掲揚されれば、安倍氏を支持する人たちの価値観が子どもや教員らに刷り込まれかねない。

 教育基本法は一四条二項で政治的中立性を求め、特定の政党を支持したり、これに反対するための政治教育、その他の政治的活動を禁じている。

 半旗の依頼など弔意の「強制」は、内心の自由を侵すばかりか、学校現場の政治的中立性も傷つける。ましてや家族葬という私的な葬儀ですら半旗を依頼した経緯からすれば、「国民を挙げて冥福を祈る」国葬に当たっては、今以上に弔意を強要する傾向が強まるのではないかと懸念する。

 教育委員会は本来、教育と政治を切り離し、教育現場で政治的中立が守られるよう努めるのが役割のはずだ。学校を特定の政治家を権威づけるために利用することは権限の乱用にほかならない。

 子どもたちを、時の政権の思惑に巻き込むような振る舞いは、厳に慎むべきである。

 

  • (2)タイトルでネタばらししているようなモノだが、「半旗を掲げて見せる」のも、「教育の一環」である。半旗の掲揚をを「依頼した」だけなのに「弔意の強制」なんぞに、なる訳が無い。

 そもそも、「どんな行為ならば、"弔意の強制"となるか?」には、相当に「解釈の幅」があろう。「国民を動員して葬儀に参列させ、、マスゲームだのご焼香だのを強制する」ぐらいのレベルならば「衆目の一致する”弔意の強制”」ではあろうが、今回の事象は「教育委員会が学校に対し、半旗の掲揚を依頼した。」だけである。依頼を受けて、半旗を掲揚した学校もあれば、しなかった学校もある。「半旗を掲揚しなかった学校」の存在が、「当該依頼の強制性」を、事実実績を以て否定している。であると言うのに、「強制力があるも同然」だの「学校の政治的中立性」だの「子供達への刷り込み」だの「特定政党への支持」だのと・・・・よくもまあ、これだけ屁理屈がこねられたモンだ。感心するぞ。

 「半旗を掲げる」なんて機会は、滅多に無い。半旗を掲げ、その意味を教えるのも、教育の一環だ。その教育に、安倍元首相の功罪も所属政党も、関係ない。「子供達への刷り込み」と言うならば、在学中に数度掲げられるか否かの半旗なんぞより、連日連夜で10年ばかり続けている「モリカケ桜追及」の方が、余程影響は大きかろうよ。

 要は、イチャモン。「国葬反対」にも「国葬の国会での説明/追及=国会ワイドショー実現」にも、ほぼ完全に失敗したから、「腹いせの嫌がらせ」って所、だろうか。