-
.ウクライナに勝利と自由を!プーチンには敗北と屈辱を!!
先行記事「ウクライナが必要としているのは、「平和」ではない。「勝利」である。【敢えて断言】h
」でも述べたところだが、ウクライナに必要なのは「平和」ではない。「平和」を求めるだけ、ならば、我が国の一部(テリー伊藤とか、橋下徹とか。)が主張するように「サッサとロシアに降伏してしまえ。」というある種の「暴論」が罷り通る/罷り通れる。こう言うのは普通、「敗北主義」と呼ばれるモノであり、ある意味「利敵行為」でもあるのだが、「平和主義」の名の下にかかる「暴論」を為す者は枚挙に暇が無い。
「暴論」。左様私(ZERO)は、斯様な「ウクライナはサッサとロシアに降伏しろ」という「ウクライナ降伏論」を「暴論」と呼んでいる。また、先行記事でも(そのタイトルからして)主張しているとおり、「今こそ、ウクライナに平和を!」などと言う主張には賛同しない。
理由は単純にして明快だ。世の中には、「平和よりも大事なモノ」「戦争をする価値があるモノ」が「在る」と確信して居るから、だ。
正直言って、「平和よりも大事なモノ」「戦争をする価値があるモノ」とは、その「平和/戦争」が「我が国の平和/戦争」か、「他国の平和/戦争」かで、異なる部分がある。その中間に「近隣国の平和/戦争」が当然の如くあり、その範囲は、「前者の方が狭く、後者の方が広い」。
何を言いたいのかというと「我が国の平和/戦争」と「他国の平和/戦争」では、自ずとその「価値が違う」と言うことが一つ。
もう一つは「我が国の平和よりも大事なモノ」というのは確かに在り、その為には、(*1)「平和主義を標榜している我が国と雖も、戦争を決心し覚悟し実施する、場合が「ある」し、在るべきだ。」と言うこと。
松本零士流に言えば、「男なら、負けると判っていても、戦わねばならない時がある。
死ぬと判っていても、行かねばならない、時がある。」と言う奴。
映画「アラモ」で言う、「生きるべき時と、死すべき場所。」と言う奴だ。
先行記事「己が命が一番、等という輩は、己が命以上の事は為せないだろう。
」にも示した通り、だな。
更にもう一つは、今の所今次ロシアのウクライナ侵略は我が国にとって「他国の戦争」であり、ある意味「我が国自身の戦争よりは、安い」と言うこと、である。
左様な、ある意味「建前論」、「理想論」、情理の「情」の話としてのウクライナ支援・応援・反露方針にたいして、情理の「理」ないし「利」、我が国益という観点で考えても、やはりウクライナ支援・応援・反露方針は、採択されて然るべきだろう。世の中にはロシアの石炭だとか、天然ガスだとか、甚だしきに至っては「サケマス漁獲量」などの確保を「我が国益」として、「ロシアを刺激するな」論を唱える者も枚挙に暇が無いのだが(*2)・・・国家の安全保障以上の「国益」なんて、そうそうあるモノでは無い。石炭も天然ガスもサケマスも、そりゃ大事と言えば大事、国益と言えば国益ではあるが、我が国の安全保障、我が国の安全安泰存続の前には「些事」でしかなかろうに。
忘れてはいけないな。ロシアは、我が国の隣国であり、未だ北方領土を不法占拠続けている、ある意味「敵国」である。敵国の弱体化が我が国益であるのは自明のこと。従って、ロシアがウクライナ侵略で消耗損耗し、更には滅亡することは、「我が国益」に他ならない。
積極的に「ロシアを滅ぼす」となると、相応にリスクである。日露開戦の恐れもあるから、安全保障上のリスクともなり得よう。だが、「ロシアが滅びるのを座視する」のには、そんなリスクは無いし、「ロシアの延命に手を貸さない」のも同様だ。
以上から、情理の何れの面からも、ロシアの弱体化は我が国益であり、我が国は今次ロシアのウクライナ侵略に対し、断固ウクライナを支援し、ウクライナ支援・反ロシアの旗幟を鮮明にし、対露制裁を大いに実施すべきである。
ウクライナに、勝利と自由を。
プーチンに、敗北と屈辱を。
それこそが、今次ロシアのウクライナ侵略に対する「正解」である。
<注記>
(*1) 日本国憲法がどうあろうが、憲法九条がこうあろうが、
(*2) NHKに至っては、「今次ウクライナ侵攻は許されるべきではないが、それが日本のサケマス漁獲量に影響することは許されない。」とか、堂々と抜かしていた。お前ら、ロシアとウクライナが戦争している、って理解しているのか?
ウクライナの犠牲者に、ロシアに虐殺されたウクライナ市民に、これから殺されるかも知れないウクライナ人に、「日本のサケマス漁獲量のために、見殺しにします。/見殺しにしました。」と、言っているんだぞ。