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我が師(の一人)の魂に、平安あらんことを。-【毎日】英作家ジャック・ヒギンズさん死去 92歳「鷲は舞い降りた」
「森羅万象、皆我が師」を、私(ZERO)は目標とし、実践しようと心掛けている。無論、「心掛けはするモノの、なかなか実践できていない」ことは、認めないといけないが。
左様に心掛けていれば、自ずと「我が師」たる者は増えていくのが道理だが、「我が師たる作家」となると、なぁかなか居るものではない。「ノンフィクション作家」ないし「SF作家」にまで「延翼」すれば、未だ増えそうだ(*1)が、純然たる(フィクション)作家となると、先ずアリステア・マクリーンとジャック・ヒギンズぐらいしか思い当たらない。二人ともイギリス人だが、他意はない・・・筈だ(*2)。
そんな「我が師たる作家」の一人、ジャック・ヒギンズ氏の訃報が、入ってきた。
- <注記>
- (*1) SF作家としてアイザック・アシモフとか、ノンフィクション作家として村松剛とか。
- (*2) 二人とも「冒険小説作家」であるのには、「他意がある」と認めざるを得ないな。何しろ私が読む小説と来たら、冒険・アクション(戦記含む)、SF、歴史・時代(戦史含む)、推理が殆どで、ファンタジーが少々、と言うところ。恋愛小説だのビジネス小説だのになると、「何か読んだこと、あったっけ?」状態だ。村上春樹とか、文学賞受賞作とか、話題の小説は、「話題の小説」と言うだけで、殆ど自動的に読む気が失せる。「昔読んだ直木賞受賞作品かなにかが、試しに斜め読みして、恐ろしく詰まらず、呆れ返った」記憶があるため、かも知れない。
【毎日】英作家ジャック・ヒギンズさん死去 92歳「鷲は舞い降りた」
https://mainichi.jp/articles/20220411/k00/00m/030/023000c
英BBC放送などは10日までに、「鷲(わし)は舞い降りた」などの冒険小説で知られる英国の作家、ジャック・ヒギンズ(本名ヘンリー・パターソン)さんが居住地の英領ジャージー島で死去したと報じた。92歳。英出版社ハーパーコリンズ社が明らかにした。死亡日時や死因は不明。
ジャック・ヒギンズ氏=撮影年月日不詳、ハーパーコリンズ社提供・AP
c 毎日新聞 提供
ジャック・ヒギンズ氏=撮影年月日不詳、ハーパーコリンズ社提供・AP
1929年、イングランド北部ニューカッスル・アポン・タイン生まれ。兵役を経験後、教師を経て作家に転身した。英首相チャーチルの拉致を試みるナチス・ドイツ部隊の冒険を描いた代表作「鷲は舞い降りた」(75年)は、戦後は悪役として描写されがちだったドイツの軍人を、苦悩する血の通った人間として描いた点が話題になった。
他の代表作に北アイルランド紛争に絡む「死にゆく者への祈り」、海洋冒険小説の傑作とされる「脱出航路」など。
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「鷲は舞い降りた」「死にゆく者への祈り」「脱出航路」、皆読んだし、未だ持っている・・・筈だ。
一頃、「ジャックヒギンズ作品の文庫本は、見つけたら必ず購入」って「見敵必殺」ドクトリンを実行していたこともあり、ヒギンズ作品(で、翻訳され文庫化されたモノ)は粗方読んだ気がするが、上掲記事で紹介された作品を読んだのも随分前だし、「ジャック・ヒギンズ師がつい先日までご存命」とは、ついぞ知らなかった。「不肖の弟子」と自戒・自省すべき所、かも知れない。
私(ZERO)とジャック・ヒギンズとの出会いは、多分「映画化されていた(地上波放送でも見た、気がする)ために知っていた」、上掲記事見出しにもなっている「鷲は舞い降りた」が最初だろう。多分、アリステア・マクリーンの「荒鷲の要塞(これも、映画化されていたので、知っていた。)」と同時に文庫本で買った、気がする。
ちなみのこの小説「鷲は舞い降りた」は、私(ZERO)の数少ない「一読必泣の書=読む度に涙を禁じ得ない本」である。
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.原作に(基本的に)忠実な実写化・映画「鷲は舞い降りた」
https://www.youtube.com/watch?v=utUG73AhDKc
「鷲は舞い降りた」の主人公・クルト・シュタイナー大佐は、歴戦の空挺部隊指揮官。とある事情(どんな事情かは、是非映画で御覧頂きたい)で「時間のかかる自殺」でしか無い「人間魚雷による半特攻作戦」メカジキ作戦(*1)を命じられていたが、「英国首相チャーチルを誘拐拉致する」特殊作戦のために、部下諸共召還され、ポーランド人義勇空挺隊に偽装して(*2)、チャーチル首相が休暇を過ごすと言う情報を得たイギリスの田舎町に潜入する・・・
映画では、主人公・クルト・シュタイナー大佐を「優男」マイケル・ケインが演じ、現地で支援に当たるアイルランド人リーアム・でブリンを怪優ドナルド・サザーランド(*3)>が演じる(*4)。
この映画の特徴は大きく二つだろう。一つは、章題にもした通り、「原作にかなり忠実に実写化されている」こと。このため、逆に「原作とは異なっている部分」が特に印象的だったりする。原作との違いで大きいのは、「本特殊作戦(チャーチル首相誘拐)に当たり、シュタイナー大佐と部下達が、ポーランド人義勇兵としての偽装の軍服の下にドイツ軍空挺部隊の正式な軍服を着込んでいる(*5)、理由」。原作ではこれも「理不尽な上層部からの命令」となっているが、映画では「ドイツ軍空挺部隊としての意地と矜持」で、かなり強引に上官たるマックス・ラドル大佐に「事後承認」させている。
もう一つは、軍装品とか小道具に対する、こだわり、だ。結構有名なのが、「背景としてチョイと映る、ためだけに、本物の三号突撃砲戦車を借り出して撮影したこと」。態々博物館から借りて来たからか、鉄道貨車に偽装も何も無しの「裸の状態」で背景に納まっており、「マニア垂涎のシーン」と言っても、過言ではあるまい。私(ZERO)というマニアが断言しているのだから、間違いない。
相前後して背景に映る「5号中戦車パンテルと思しき戦車」が入念に偽装されている(と言うより、偽装することで「偽物であること」を誤魔化し/誤魔化せている。)のとは、鮮やかな対比を見せている。
この映画の名シーンとして特筆大書したいのは、義勇ポーランド人部隊と言う偽装がバレ、村の教会に籠城することを決めた後のシーンだ。「秘密の脱出路」がアイルランド人・リーアム・デブリンの活躍で発見され、これを受けて、「我々には、未だ。(任務である)チャーチル首相誘拐を遂行可能だぞ。」と楽観的に(”朗らかに”と言って良いぐらいに)告げる主人公・シュタイナー大佐に対し、部下のドイツ空挺隊員達は、「ですが、全員で脱出すれば、失敗します。」と反論する。
https://www.youtube.com/watch?v=2sASzlG3Is4
「Very probably. Do You have a suggetstion ,Right?
大いにあり得ることだな。何か妙案があるんだろ?違うか?」と楽しげに問う大佐に、部下は、
「You go ,and We stay. 大佐お一人で行って下さい。
我々は、可能な限り、此処を支えます。」
流石に表情を変え、二の句が継げない体の大佐だが、別の部下(*6)がこともなげに言う。
「援護射撃の開始は、30秒後で宜しいでしょうか。大佐殿。」
これぞ、薩摩兵法で言う「捨てがまり」。我が身を捨て、犠牲とすることで、味方の撤退を援護する。部下達の覚悟と意気に感じた(と、私(ZERO)には思われる)大佐は、「Yes 宜しい」と短く答え、死地に残る部下達と今生の別れとなる敬礼を交わす、のである。
映画のこのシーンも、小説を忠実に実写化しており、「ドイツの軍人を、苦悩する血の通った人間として描いた」と、上掲毎日記者でも評される所以である。上記シーンの一寸前の米軍レンジャー部隊との交渉で教会に閉じ込めた村人達を解放するシーン(*7)も、その前の「ポーランド人義勇部隊という偽装がバレる」シーンも、一寸後の「ブローニングM2 12.7mm車載機関銃の威力(*8)」共々、忘じ難いモノがある。
- <注記>
- (*1) 魚雷を2本上下に並べてくっつけ、上の方の魚雷にバイクの様な操縦席を付ける。操縦手は上の方の魚雷に潜水服を着てまたがって操縦し、目標である敵艦へ肉薄して、下の方の魚雷を発射する。
- サッサと退避しないと、目標に命中した魚雷の爆発が水中を圧力波として伝わり、攻撃した操縦手も巻き込む。
- (*2) シュタイナー大佐自身はネイティブ並みに英語ペラペラだが、部下の空挺隊員はそうは行かない。
- (*3) キーファー・サザーランドの親父で、「クローンじゃぁ無かろうか」ってぐらいにソックリ。無論、「クローンじゃ無かろうか」なのは、息子のキーファーの方だが。
- (*4) あと、登場シーンは少ないが、結構インパクト大なのが、ヒムラー秘密警察長官兼副総統を演じる名誘・ドナルド・プレザンス。シュタイナー大佐の直属の上司をアイパッチを着けて演じるロバート・デュパルも、渋い。
- (*5) ご丁寧に、ドイツ軍特有の鉄十字勲章までつけている。
- (*6) この人は、テレビシリーズ「0011ナポレオンソロ」で主人公ナポレオンソロ(ロバート・ボーン)の相棒であるロシア人・イリヤ・クリヤキンを演じた俳優だ。多分。
- (*7) 原作には、此処で「叔父さんは、どうしてドイツ軍なの?」って、名科白があるんだが、映画には無い。
- (*8) 建物粉砕
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.ヒギンズ作品の魅力
映画化されると一寸判りにくいが、ジャック・ヒギンズ作品の魅力の一つは、「やたらに詳細で綿密な人物プロフィール」である。主人公のプロフィールが詳細なのは、「ままあること」ではあろうが、悪役・敵役・憎まれ役にも、相応のプロフィールが「書き込まれ」ており、これは、一寸映画化・実写化は難しい部分。またそのプロフィールが、色んな所で「意味を持って」居り、伏線ともなっていたりする。それが読者の「思い入れ」を深める効果も、ある(狙って、かどうかは、疑義の余地があるが。)。
例えば、「裁きの日」の敵役に「東側諜報機関が雇う、拷問と洗脳の専門家」ヴァン・ビューレンってのが登場する。コイツの「憎たらしさ」と来たら、「その名を思い出すだけで、腸が煮えくり返る、気がする」レベル。「小説上の架空の人物」に対して、それほどの感情を私(ZERO)に抱かせるのは、ジャッ・ヒギンズの筆力と、その詳細綿密な人物プロフィールの為せる技であろう。
一方で、その「裏返し」とでも言うべきか、「主人公の経歴がどれも似通っている/似通ってくる」と言うのも、否めない。ヒギンズ作品は第2次大戦から冷戦時代までのモノが多いのだが、「主人公の経歴が似通った」結果として「年齢を誤魔化して、徴兵年齢に達しないのに第2次大戦に従軍した」なんて(一寸無理のある)経歴になったりする。まあこれも、「一種のご愛嬌」だと、私(ZERO)は思っている。
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「我が師」たる資格
尤も、「詳細綿密な人物プロフィール」が「登場人物への思い入れ」の十分条件ではないだろうし、これだけで「自動的に我が師となる」訳も無い。冒頭に述べた「森羅万象皆我が師」とは矛盾する様だが(それだけ「言うは易く、行うは難い。」と言うことでも、ある。)、「我が師と呼べる小説家」の小説には、「我が師と呼べるだけの"教え"」が、不可欠であろう。
「小説によって得られる”教え”」とは、基本的に「登場人物の生き方/生き様」に他なるまい。事実、我が師と呼ぶジャック・ヒギンズ作品の登場人物達の生き方/生き様はには、多くの"教え"があり、その"教え"が我が琴線に触れるからこそ、「我が師」と呼ぶに至っている。
例えば、「サンタマリア特命隊」の主人公・エメット・ケオーを取り上げよう。舞台は1922年と言うから戦間期のメキシコ。革命と粛正の嵐が吹き荒れるこの血で、主人公は「トリガーガードを削って早撃ちに特化したリボルバー(*1)」片手に、あれやこれやあって最後の戦いに「ラスボス」を倒した、後のシーンだ。
この戦いで負傷したエメットは、「此処でこの銃を投げ捨てれば、物語は完結する。」と自覚(&自嘲?)しつつ、「それは、エメット・ケオーのやり方ではない。」とキッパリと否定し、負傷して不自由な手で愛用の(トリガーガードの無い)リボルバーに新たに弾を込めていく、ってところで、この小説は終わる。
ここに至るまでは、「やたらにマシンガン射撃が上手い生臭神父( バイオリンケースの中にトンプソン短機関銃を隠し持ち、いざというときには颯爽とそれを取りだして、盛大にぶっ放す。 )」や「衝撃で口のきけなくなったヒロイン(*2)」との出会いとか、色々あるんだが、そこは端折って、この「ラストシーン」から、私(ZERO)が受けた「教え」を解説するならば・・・
先ず、「生きろ」。それも「強く生きろ。」って強烈・強靱なメッセージであり、「強く生きる」ための「武器・武力の重要性・致命性」であろう。此処では「リボルバーへの銃弾再装填」と「リボルバーの放棄・投棄」との鮮明な対比として描かれている。「エメット・ケオーのやり方」と矮小化し、自嘲さえしているようだが、それは正に「普通のやり方」であり、「責任ある/責任感ある、男のやり方」である。ギャビン・ライアルの「深夜プラス1」主人公の決め科白「Cause, I'm Canton これが、俺流のやり方だ。」にも、通じるモノがあろう。
即ち、私(ZERO)は、「サンタマリア特命隊のラストシーン」に、「憲法9条なんて、役に立つかよ。」って「政治的メッセージ」を(も)読み取っているのである・・・まあ、「憲法9条信者」では、冒険小説の主人公は務まらんわなぁ。モブキャラとしてアッサリ殺されてお終い、だろう(*3)。
ジャック・ヒギンズ作品は基本的に冒険小説であり、それ故に主人公は何らかの試練・逆境・危機に立たされ、それを何らかの形で「乗り越える」事になる。無論、そこは小説であり「都合の良い絵空事」であるから、試練・逆境・危機に主人公が押し潰されて敗退し、死亡ないし完全屈服する、なんてことは(基本的に)無い。
その「試練・逆境・危機の超越」を、如何に、如何なる態度で実現するか、が一つの「冒険小説の主人公の見せ場」だ。ヒギンズ作品の主人公達は、多くの場合チョイと(或いは、大いに)斜に構えている、皮肉屋だ。エメット・ケオーは、「私は何事も、滅多に気にしない。」と言い切るし、リーアム・デブリン(*4)は、「この世は、万能の神様が作り上げたヘタな冗談事。」と断定・断言する。だが、その「シニカルな皮肉屋」が、何かの拍子で「ヘタな熱血漢も裸足で逃げ出す様な”熱さ”」を見せる。見せつけてくれる。
その”熱さ”が、「我が師の教え」ともなれば、「ヒギンズ作品の魅力」ともなる。一種の「ギャップ萌え」とも、言えそうではあるな。
先述した映画「鷲は舞い降りた」の「捨てがまり」シーンで言うならば、「教会に籠城(って事は、教会内に包囲された、ってことでもある)」という「逆境」に対し、(リーアム・デブリンが探り出した)「脱出路の発見」という朗報。「これで任務(チャーチル誘拐)は未だ継続できる。」と(楽しげ、と言いたくなる程、朗らかに(*5))宣言する主人公・シュタイナー大佐に対し、任務完遂のために死地への残留を提案する部下の空挺隊員達。それを受けて、脱出を決意し、今生の別れとなる経営を交わす、大佐と部下達。
「未だ、死ぬと決まった訳ではない。
だが、どうせ死ぬのなら、時と場所は、自分で選びたい。」
「教会への籠城」に先立ち、教会内に居た村人達を解放した後、米レンジャー部隊隊長に対して決めた、シュタイナー大佐の科白が、実に良く「効いて」要る。ナンとも、「熱い」話では無いか。
そんな数々の「教え」を小説として具現化した(ジャック・ヒギンズは、多作な作家としても知られている。)、ジャック・ヒギンズ師の訃報である。92歳という御長命を寿ぎながら、ご冥福をお祈りするばかりである。
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<注記>
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(*1) エンフィールド、だったかなぁ。「気をつけて。その銃はヘアトリガー(引き金が軽い銃)として有名だ。」と、当人も言っている。真似して、モデルガンのトリガーガードを削り落とした「エメット・ケオー・スペシャル」を作った、覚えがある。
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(*2) で、主人公の危機に、思わずその名を叫び、言葉を取り戻す。
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(*3) 「北斗の拳」に、そんなモブキャラが、居たなぁ。無論、拳王に瞬殺された。
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(*4) 「鷲は舞い降りた」では主人公シュタイナー大佐の助っ人的立場だが、彼を主人公にした作品も、ある。
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(*5) いやあ、マイケル・ケインの優男ぶりが、こう言う演技には、光るねぇ。
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我が師の魂に平安のあらんことを
而して、ジャック・ヒギンズやアリステア・マクリーンの「後を継ぐ者」が、あらんことを、祈ろう。
冒険小説やスパイ小説は、ソ連邦崩壊=冷戦終結時に「絶滅を危惧された」ジャンルである。だが、別に東西冷戦が無くなったぐらいで、冒険やスパイの舞台が無くなった訳では無いし、何も今現在の現代社会を舞台にしなければならない理由も無い。時間軸方向にも空間軸方向にも、延翼の余地はあろうというモノだ。
「冒険小説に対する需要が減り、売れず、利益が上がらない」となると、「職業としての冒険小説作家」は「昔より成立しがたい」のかも知れないが、一方でライトノベルやネット上の小説などで、「趣味として、ないし商売ならざる冒険小説」は、昔よりも成立しやすく、成功する可能性も上がっていそうだ。
って事は、だ。理論上・理屈上、「私(ZERO)が、ジャック・ヒギンズの衣鉢を継ぐ冒険小説家となる/なれる」可能性も、「無い、では無い」と、言えそうだ・・・「言うだけならば」、だが。
冒険小説(と思える作品)を書いた覚えは無いけれど、恋愛小説やビジネス小説よりは、まだ「書けそう」な気がするな。冒険小説的な作品ならば、書いているしな。
だが、「ジャック・ヒギンズの衣鉢を継ぐ」となると・・・先ず、主人公のプロファイル作りから入るののかなぁ。出来るとしても、先は長そうだぞ。