• 安保法案審議に「生涯で最も戦争の危機を感じる」と言ったことは、決して忘れないぞ。ーアカ新聞どもの瀬戸内寂徳絶賛社説に対する異議


 些か旧聞に属するが、作家にして僧侶にして女性である瀬戸内寂徳が亡くなったそうだ。

 死者に対しては、生前の恩讐対立を越えてその死を悼むのが、我が国の通例であり、「死んでしまえば仏様」という言葉にそれは端的に表れている。  
 逆に「死者に鞭打つ」と言うのは、特にその死の直後には大いに忌み嫌われる所業であり、「死者に対する冒涜」とさえ、見なされかねない。


 であるならば、瀬戸内寂徳が亡くなったことに対し、下掲の通りアカ新聞各紙が「瀬戸内淑徳の死を悼む社説を掲げた」としても、「異とするには足らない」・・・の・だ・が。

 無論、アカ新聞どもの「瀬戸内寂徳絶賛礼賛社説」に対し、大いに「異がある」からこそ、こんな旧聞に属する訃報を取り上げているのである。

①【朝日社説】寂徳さん逝く 貫く自分 次代への教え
②【毎日社説】瀬戸内寂徳さん逝く 社会の駆け込み寺として
③【東京社説】寂徳さんを悼む 生涯を貫く反戦と慈愛
 

  • ①【朝日社説】寂徳さん逝く 貫く自分 次代への教

寂聴さん逝く 貫く自分 次代への教え

  https://www.asahi.com/articles/DA3S15110056.html?iref=pc_rensai_long_16_article

 

2021年11月13日 5時00分

 

 瀬戸内寂聴さんが亡くなった。享年99。

 

 作家とか僧侶とか、ましてや文化勲章受章者とかの説明は不要。「寂聴さん」で、誰もがその顔を、声を思い浮かべた。

 

 反戦・平和を訴え、原発の危険性を説き、舌鋒(ぜっぽう)鋭く政府を批判する。悲しみを抱えて法話を聞きにきた人に、そっと手を添える。自分の老いから来る失敗を笑い話にし、タブー視されがちな性のことも愉快に語る。

 

 寂聴さんが見せる様々な表情に、世代や男女の別を超えて多くの人が引き寄せられた。

 

 人生を貫いたのは、自分の足で立ち、自分の頭で考え、批判を恐れずに、前に歩む姿勢だ。同じように己に忠実に生きた先人を小説に描くことで、その大切さを世の中に伝えた。

 

 「四百冊を超えているらしい自作の中で、ぜひ、今も読んでもらいたい本をひとつあげよと云(い)われたら、迷いなく即座に、『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』と答えるであろう。今、この混迷を極めた時代にこそ、特に前途のある若い人たちに読んで欲しい」

 

 5年前に寂聴さんはそうつづった。

 

 押しつけられた結婚を嫌って出奔し、「元始、女性は実に太陽であった」の創刊の辞で知られる、女性による女性のための雑誌「青鞜」の編集に携わった伊藤野枝(のえ)の伝記小説だ。関東大震災の混乱の中、夫でアナーキストの大杉栄、6歳のおいとともに官憲の手で虐殺された。

 

 他にも寂聴さんには、明治末の大逆事件で死刑になった管野須賀子(かんのすがこ)や、無籍者として育ち、底辺から社会を見つめ、最後は恩赦を拒否して獄中で自死した金子文子(ふみこ)ら、苛烈(かれつ)な生涯を送った近代日本の女性を取りあげた作品が多くある。

 

 個々の言動の是非や評価はともかく、既存の価値観に絡め取られず、揺るがぬ自己を保ち、それを押しつぶそうとするものと戦い続けた女性たちへの共感が、これらの作品群から立ちあがってくる。

 

 もちろん、野枝らがいた時代と現代とを同列には論じられない。だが、「個」を尊重せず、特定の家族観や人間像を押しつけ、女性を軽んじ、「わきまえる」ことを求める空気は、厳として存在する。

 

 寂聴さんは、人々を追いつめ生きにくくさせるこうした社会に対し、ある時は怒りをあらわにして、ある時はそれをユーモアにくるんで対峙(たいじ)し、筆を執り、法話のマイクを握った。

 

 先人のあとを追い、「戦い続けた」寂聴さんは逝った。だが寂聴さんが残した数多くの小説やエッセー、映像は、これからを生きる者の背を押し続ける。

 

  • ②【毎日社説】瀬戸内寂徳さん逝く 社会の駆け込み寺として

瀬戸内寂聴さん逝く 社会の駆け込み寺として

  https://mainichi.jp/articles/20211113/ddm/005/070/092000c

 

毎日新聞 2021/11/13 東京朝刊 834文字

 多くの老若男女が、その言葉や行動に勇気づけられ、救われたのではないだろうか。

 

 作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが亡くなった。最晩年まで新聞や雑誌の連載を抱え、驚異的なエネルギーで99年の生涯を駆け抜けた。

 

 文学界での地位を確固たるものにしたのは、社会規範や因習からの自由や自立を求め、権力と闘った女性たちの評伝小説だった。

 

 

 愛と性を大胆に描いた「花芯」が文壇で批判され、不遇の時を過ごした。男性中心の社会に、風穴を開けたいという思いもあったに違いない。

 

 フェミニズム文学の先駆者である田村俊子や、岡本かの子、愛と革命に生きた伊藤野枝、管野須賀子らを活写した。それらの作品は、自身の恋多き自由奔放な生き方に重なった。窮屈な社会に生きる女性たちへのエールでもあったのだろう。

 

 

 51歳で出家し、僧侶となってからの後半生は、人に寄り添うことに情熱を傾けた。

 

 人々に直接語りかける講演をライフワークにした。京都・嵯峨野に結んだ寂庵などでの法話は、多くの人を引きつけた。

 

 「他人に流されず、自分の信念に沿ってしたいことをして生きていれば、人生が自然に開ける」

 

 自らの業を見つめてきた人間味のある言葉だけに、力を持った。悩み、迷う人々のよりどころであり、駆け込み寺となった。

 

 

 性被害や自殺未遂を体験した少女たちの居場所を作る「若草プロジェクト」を始めたのは、90歳を超えてからだ。

 

 理不尽なことがまかり通る社会のありようにも異議を唱えた。

 

 湾岸戦争に断食で抗議した。安倍晋三政権が進めた安保法制に反対する集会では、自らマイクを握った。戦争を知る世代が次に伝えなければという信念が、小さな体を動かした。

 

 東日本大震災の被災地を訪れ、

 

希望を失わないよう住民を励ました。原発の再稼働反対を訴えるハンガーストライキにも参加した。

 

 人々が愛し合い、誰もが生きやすい社会になることを願い続けた。コロナ禍で格差と分断が広がる今こそ、その思いの実現が求められている。何ができるのか、一人一人が考えたい。


③【東京社説】寂徳さんを悼む 生涯を貫く反戦と慈愛

  • ③【東京社説】寂徳さんを悼む 生涯を貫く反戦と慈愛

  https://www.tokyo-np.co.jp/article/142375?rct=editorial

2021年11月12日 07時37分

 京都の寂庵(じゃくあん)をはじめ各地で仏の教えを説き、生き惑う人の悩みに真剣に応じた。「心配ないわよ、大丈夫よ」と励ます笑顔は、人を愛し、慈しむ思いに満ちていた。瀬戸内寂聴さんの死を悼む。

 僧侶として作家として、何人分もの人生を生きた。その九十九年の生涯を象徴する言葉の一つは、「反戦」。二十代で迎えた第二次大戦の日本の敗北に端を発する。

 戦中は当時の夫と中国・北京で暮らし、現地での日本人の行動をつぶさに見た。「中国の人が引く人力車にふんぞり返って乗って、頭を蹴っとばして行き先を伝えるのよ。本当にひどかったわね」

 それでも「日本の戦争を聖戦と信じこむ忠君愛国の主婦」だったというが、敗戦の翌日、ひそかに出かけた北京の街頭で、中国人の書いた「敵に報いるに恩をもってなす」という句を見た。「自分がいかに愚かだったか、初めて目が覚めた」と後に述懐している。

 まじめな主婦は従来の価値観を根底から揺さぶられた。帰国後は道ならぬ恋に落ちて、離婚。少女時代から愛する文芸に生きる道を求めたが、小説「花芯」がポルノだとされて、文壇から干される。

 こうした来歴ゆえ、瀬戸内晴美として活躍した時期も、出家して瀬戸内寂聴となった後でも、毀誉褒貶(きよほうへん)がつきまとう。だが「そんなこと、どうでもいいのよ」と笑い飛ばした。自分自身の思い定めた生き方をひたすら貫いたのだ。

 一九五三年の徳島ラジオ商殺人事件に関する活動も特筆したい。有罪とされ、服役した女性の冤罪(えんざい)をはらすため私費で長年奔走し、日本で初の死後再審と無罪判決を勝ち得た。ドレフュス事件で不正を告発したゾラと同様、文学者の社会参加として未曽有の功績だ。

 仏の教えに従い「殺すなかれ、殺させるなかれ」と訴え、反戦と護憲を説き続けた。災害があれば被災地を手弁当で訪れて被災者を慰め、涙ながらに感謝された。

 東日本大震災と原発事故の後は反原発を唱え、九十歳を過ぎてもなお街頭の抗議活動に加わった。小柄な体に無尽の文才と行動力、慈愛の心に満ちていた寂聴さん。その足跡を長く記憶に刻みたい。

 

 

  • 今年は真珠湾攻撃=日米開戦80周年。で、瀬戸内寂徳の享年は99。真珠湾攻撃の時、瀬戸内寂徳は十九歳ないし二十歳だった訳だ。

 十九、二十歳と言えば、「物心つく」どころでは無いし、その後大東亜戦争は約4年間続き、我が国の都市という都市は戦略爆撃を喰らい、広島・長崎には核攻撃まで喰らい、港という港は機雷で封鎖されると言う惨状を呈した。そんな大東亜戦争下の大日本帝国の惨状を、瀬戸内寂徳は二十代前半に体験した、筈である。

 その、「大東亜戦争を二十代前半に体験した」瀬戸内寂徳が、だ。我が国の集団的自衛権を(部分的に)認める安保法が法案として国会審議されていた頃に、私の生涯で、今程戦争の危機を感じたことは無い。」と抜かしたんだ。タイトルにした通り、忘れるモノかよ。
 
 諄いようだが繰り返そう。大東亜戦争を二十代前半に体験した瀬戸内寂徳が、安保法が国会審議されている事に対し、「大東亜戦争という実際の戦争以上の”戦争の危機”を感じている。」と抜かしたんだ。忘れようったって、忘れられるモノではあるまい。

 例え話(*1)とか、その場の勢いでつい口走ったとか、考えようが無いことも無いが、だとしてもかなりのお調子者でオッチョコチョイ。普通に考えれば大間抜けのバカか大嘘つきだろう。
 
 諄いようだが繰り返すぞ。安保法の国会審議に、未だ成立以前の安保法に、第2次世界大戦の一環である大東亜戦争の最中よりも「戦争の危機を感じる。」と、抜かしたんだぞ。瀬戸内寂徳は。

 上掲の通り、アカ新聞どもはその瀬戸内寂徳を、「反戦と慈愛」だの「次代への教え」だのと、大絶賛の体だ。冒頭記した通り、死者に対しては「生前の恩讐対立を越えて、その死を悼むのが、我が国の通例」でもある。

 だが、タイトルにもした通り、私(ZERO)は、安保法の国会審議に、大東亜戦争の最中よりも「戦争の危機を感じる。」と抜かした瀬戸内寂徳を、忘れる訳にはいかない。忘れることが出来ない。

 と、同時に、その安保法が成立して執行され、5年以上も経つ現在に至るまでの期間に「どれ程の戦争の危機を、どの様に感じて来たのか。(感じている、のだよな?)」を、是非とも詳細に伺いたいものだ。

 今や故人となってしまった瀬戸内寂徳に、それを問うのは最早不可能ではある。

 が、安保法に対し「戦争の危機を感じる」と表明した輩は、瀬戸内寂徳に限らない。未だ偶に「安保法に疑念・懸念がある。」とか抜かしてお茶を濁すばかりの様だが、「どれ程の戦争の危機を、どの様に感じて来たのか。」、審らかにしてもらいたいモノだ。
 
 上掲瀬戸内寂徳絶賛社説を掲げる、アカ新聞どもにも、な。

 

  • <注記>
  • (*1) だとしても、ずいぶん極端な例えだ。