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出版業とは、気楽な稼業と、来たモンだ!ー【ハフポスト】「タケヤリで戦えというのか」宝島社が意見広告で政府のコロナ対応を批判
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有り体に言おう。出版業界の少なくとも一部は、あ・の・無責任野党と同様に、「政府批判/体制批判で飯を食っている」。斯様な(一部の?)出版業界にとっ政府批判/体制批判は「飯のタネ」であるから、大凡ありとあらゆる不平不満は「政府攻撃の材料」となり得る。
昨今の不平不満で「武漢肺炎禍とその悪影響に対する不平不満」に如くモノは一寸無さそうだ。であるならばこれは、「恰好の飯のタネ」と宝島社が考えたとて「無理からぬ事」と言うよりは「理の当然である」という方が良さそうだ。
誤解無いように言っておこうか。政府批判/体制批判と言うのは、基本的に「必要なモノ」であるし、それを為そうと野党や(一部?)マスコミや(一部??)出版業界が「鵜の目鷹の目」であるというのは、ある種「民主主義体制の健全性の証」であるし、「言論の自由の発露」でもある。
が・・・下掲記事にある宝島社の「政府批判/体制批判」広告は、チョイと非道すぎないか?
【ハフポスト】「タケヤリで戦えというのか」宝島社が意見広告で政府のコロナ対応を批判
【ハフポスト】「タケヤリで戦えというのか」宝島社が意見広告で政府のコロナ対応を批判
これからの経済
2021年05月11日 12時02分 JST
「タケヤリで戦えというのか」宝島社が意見広告で政府のコロナ対応を批判
https://www.huffingtonpost.jp/entry/takarajima_jp_6099ee15e4b0909247fa0dec
SNSでは「日の丸に竹槍。凄いな宝島社」と思い切った表現を評価する声もあれば、「竹ヤリではなく木製の薙刀では?」と指摘する声も。
安藤健二
朝日新聞5月11日朝刊に掲載された宝島社の意見広告
出版社の「宝島社」は5月11日の朝日新聞、読売新聞、日本経済新聞の朝刊3紙に意見広告「このままじゃ、政治に殺される。」を見開きで掲載した。
この広告は、女子児童が武器の訓練をする写真の中央に、新型コロナウイルスとみられる真っ赤な円形の画像を合わせたもの。「緊急事態」という刻印とともに、「ワクチンもない。クスリもない。タケヤリで戦えというのか。このままじゃ、政治に殺される」とキャッチコピーが書かれている。
その上で、「いつまで自粛をすればいいのか」「無理を強いるだけで、なにひとつ変わらないではないか」「今こそ、怒りの声をあげるべきだ」と訴えている。
■「太平洋戦争末期に重なる」と広告の意図を説明
同社のプレスリリースによると、この広告の意図は以下の通り。政府のコロナ対応について、「太平洋戦争末期、幼い女子まで竹槍訓練を強いられた、非科学的な戦術に重なり合うと感じる人も多いのではないでしょうか」と批判している。
<新型コロナウイルスの蔓延から、すでに一年以上。しかし、いまだに出口は見えません。マスク、手洗い、三密を避けるなど、市民の努力にも限界があります。自粛が続き、経済は大きな打撃を受け続けています。厳しい孤独と直面する人も増える一方です。そして、医療の現場は、危険と隣り合わせの状態が続いています。真面目に対応している一人ひとりが、先の見えない不安で押しつぶされそうになり、疲弊するばかりです。今の日本の状況は、太平洋戦争末期、幼い女子まで竹槍訓練を強いられた、非科学的な戦術に重なり合うと感じる人も多いのではないでしょうか。コロナウイルスに対抗するには、科学の力(ワクチンや治療薬)が必要です。そんな怒りの声をあげるべき時が、来ているのではないでしょうか。>
■「竹ヤリではなく薙刀では?」の指摘も
SNS上でも今回の宝島社の広告が話題になっている。「よく言ってくれた」「日の丸に竹槍。凄いな宝島社」「戦中も令和になっても相変わらず国民はタケヤリで戦わされてる」と思い切った表現を評価する声も多かった。
その一方で、画像で女児らが持っている武器について「竹ヤリではなく木製の薙刀では?」と指摘する声や、宝島社の出版ラインナップとの乖離を批判する声も出ていた。
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色々と突っ込めるが、先ずは、「マスク、手洗い、三密を避ける」も、「科学の力」であって、「竹槍」ではない。
逆に、ワクチンや特効薬(これは、未だ無い)が手に入り普及したとて、「マスク、手洗い、三密を避ける」をサッサとやめるような「油断」をすれば、折角の「科学の力(この場合、ワクチンや特効薬)」とて、効果を減じるだろう。殊に、特効薬は、治療するモノであって、感染や蔓延を防止するモノでは無いのだから、な。(間接的には左様な効果も期待しうるが。)
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1>>新型コロナウイルスの蔓延から、すでに一年以上。しかし、未だに出口は見えません。
率直にお尋ねしよう。「世界中で、武漢肺炎禍の出口が”見えている”人間なんて、何処に、何人居る?」
我が国よりも武漢肺炎対策が上手く行っている国は確かにある。だがそんな国でも「武漢肺炎禍の出口が見えている」と言えそうなのは、台湾とイスラエルぐらいしか思い付かない。それどころか、先進7カ国を取っても、「日本以上に武漢肺炎禍の出口が見えている国」なんてのは、皆無と言って先ず間違いなかろう。「武漢肺炎禍の出口が見え無い」という状態は、いわば「グローバルスタンダード」であろう。殊更日本政府を批難する理由に、なろう筈が無かろう。
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2>今の日本の状況は、太平洋戦争末期、幼い女子まで竹槍訓練を強いられた、非科学的な戦術に重なり合うと感じる人も多いのではないでしょうか。
言いたい事は、「日本政府の武漢肺炎対策は、非科学的だ。」って事だが、そちらは後にも登場するので、後ほどまとめて議論するとしよう。
此処では、「大東亜戦争末期の我が国・大日本帝国(当時)の対応は、”非科学的な戦術”であった。」と言う「大前提」について突っ込む事にする。
先ずは、その「非科学的な戦術」の代表例・典型例とされている(らしい)「幼い女子にまで強いられた竹槍訓練」が「非科学的な戦術」か、だ。態々背景写真にしているぐらいだから、インパクトは相当なモノだろう(*1)。議論の前提として、「当時、幼い女子に竹槍訓練が強いられた」モノとして、だ。科学的/非科学的以前に、「そいつは、戦術なのか?」って突っ込みが入るな。
字義通りの「戦術」であれば、「戦闘の術」なのであるから、「幼い女子の竹槍訓練」は、その「幼い女子」が「戦闘に投入される、ないし巻き込まれる」事を想定している、事になる。幕末会津には白虎隊の例もあり、年端もいかない少年(更には少女)が戦闘に従事する事例は沖縄戦でも報告されては居るが、「竹槍突撃」したと言う事例は、聞いた事/読んだ事がない。即ち、当該「竹槍訓練」が「戦術」として実施されたのならば、「その戦術は殆ど実施されず、その訓練は殆ど無駄に終わった」と言う事であり、ある意味「非科学的」とも言い得よう(「不合理」などの表現の方が相応しそうではあるが。)
だが一方で、兵役が国民の義務であり、軍事的常識が現代日本よりも遙かに一般的であった大東亜戦争末期の我が国/大日本帝国において、「戦術としての竹槍訓練」なんてモノが罷り通った、と考えるのは、かなり不自然である。そりゃ建前では「竹槍訓練は戦闘のワザ=戦術であり、鬼畜米英来寇の際には、お前たちはこの竹槍で刺し違えろ!」ぐらいのことは言われたかも知れない。だが、本音/本質は「士気を鼓舞し、気合いを入れるための体操としての竹槍訓練」と考えた方が遙かに合点がいくのではないか?なればこそ、「実際の戦術としての竹槍突撃は、実施実行された記録がない」のではないか?
で、「士気を鼓舞し、気合いを入れるための体操」としてならば、竹槍訓練と言う選択は「さして不合理ではない」と言えよう。「非科学的」などと誹られねばならない、ことであろうか?
言い替えれば、「太平洋戦争末期、幼い女子まで竹槍訓練を強いられた、非科学的な戦術」という非難は、当時の「建前」の上っ面だけを捕らえた、ステレオタイプのイメージなのではなかろうか。
- <注釈>
- (*1) 「竹槍では竹槍ではなく、木製の薙刀だ。」って冷静な指摘もあるようだが、本質的な差違ではなかろう。
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3>コロナウイルスに対抗するには、科学の力(ワクチンや治療薬)が必要です。
先述の通り、この3>と続くパラグラフは、「従来の日本政府の武漢肺炎対応は、非科学的だ。」と言う批難である。その裏返しとしての「科学的対応」としての「ワクチンや治療薬をよこせ」という要求である。
が・・・先ず、日本政府の此処一年ほどの対応は、「非科学的」と言われなければならない程、非道いモノだったろうか?特に、ワクチンが開発される以前のこの一年の前半に、日本政府に可能であった「科学的対応」とは、何だろうか?
ワクチンや治療薬がない状態での「科学的対応」となると、やれる事は限られる。「鎖国と戒厳令で、人も物も動かさない」ぐらいしかなかろう。実際「ロックダウン」と称してそれに近い事を実施した国はあるが、我が日本国政府には戒厳令もロックダウンも出来る権限が無い(*1)。第一、そいつは経済的に相当な悪影響を及ぼすのだから、如何に「科学的対応」であろうとも、そうそう実施する訳には行かない。
言い替えるならば「科学的対応」であるからと言って、政府は無条件に左様な施策をとる訳には行かない、という事だ。「人や物を動かし、経済を動かす、経済的視点」を、政府が忘却するというのは、やたらに出来る事でもなしし、すべきことでも無い。」
ワクチンが開発されてから以降はワクチン接種が、「経済的損失が少ない科学的対応」として期待され、これを求める声が高いのも事実だろう。我が国のワクチン摂取率が低いというのも、多分「政府対応が非科学的だ」とする批難の中には含まれているのだろう。
とは言うものの、現状ある「武漢肺炎に対するワクチン」は、外国製ばかりである。いよいよ始まったワクチン接種も、当然ながら外国から輸入されたワクチンの独壇場であり、ワクチンを輸入しない事には接種もしようが無い。
で、だ。世界には我が国よりも武漢肺炎でひどい目に遭っている国が数多ある。ワクチン製造国を含めて、だ。世界的に言って、また人道的見地からも、或いは大局的見地からも、「日本よりも酷い事になっている国へ、ワクチンは優先的に供給されるべき」というのが「科学的対応」ではなかろうか。
無論、それは「日本政府がワクチン輸入に消極的であって良い理由」にはならないだろう。また、現実として日本のワクチン摂取率が低く、且つ武漢肺炎による感染者率も死者率も低い(幸いな事に)現状の、何処までを「日本政府の責任及び功績」とすべきかは、議論が分かれる・・・というより、議論したところで決着しそうに無い「現状」であろう。
精々私(ZERO)が言える事は、「ワクチン摂取率が高いが、武漢肺炎感染率も死者率も高い」状態(例えば、米国)と、「ワクチン摂取率は低いが、武漢肺炎感染率も死者率も低い」状態(現在の我が国)と、「どちらかを選べ」と言われたら、「文句なく後者であろう」と言う事である。
「これで、ワクチン摂取率が高ければ、感染率も死者率ももっと低いはずだ。」と言うのは、確かに「科学的推論」ではあろうが、輸入に頼らざるを得ないワクチンで人口一億を数える我が国が「高いワクチン摂取率と低い武漢肺炎感染率・死亡率」を誇ったとしたら、それは随分と利己的な話、では無かろうか。無論我が日本政府が、左様な事を「利己的」と考え、「ワクチン調達を遠慮した」とも、一寸考え難いところであるし、「そうすべきである」とも主張はしないが。
日本製ワクチンの開発遅れを「政府の責任」とし、これを「非科学的対応」と批難する事には一定の理がありそうだ。だが、それは、一朝一夕で「ワクチンの開発に後れを取る」状態になった訳では無かろう。現・管政権一代の責任でも先代の安倍政権までに限る責任でも済みそうに無い。
我が国の状態は、我が国の政府は、そりゃ不平も不満も不安もあろう。「非科学的な対応」も、上述の「ワクチン接種の遅れ」や「国産ワクチン開発の遅れ」には当てはまるし、左様に批難も出来よう。
が、「このままじゃ、政治に殺される」などと言う、扇情的なタイトルに該当するとは、到底言えまい。第一、此処で言う「殺される」のためには、「武漢肺炎に罹患して死に至る」必要があるのだから、もしそうなるとしても相当に「先の話」である。幸いな事に。
まあ、上掲記事にもある通り、宝島社が出したのは意見広告で、記事ですら無いのだから、センセーショナルに煽って目立って注目を集めてナンボなのである。斯様に弊ブログで非難批判指摘糾弾されるのも、「想定内」どころか「願ったり叶ったり」なのであろう。
とは言え、左様な「注目を集める」ために武漢肺炎に対する不安を利用し、不当な政府批判を活用するというのは、人として、どうかと思うぞ。
- <注記>
- (*1) これは、武漢肺炎対策として泥縄ながらも特措法を作り、「緊急事態宣言を出せる」法体制としながら、なお「出来ない」という点は、特筆大書すべきであろう。