詩人とあっても、テロ支援者だ。ー【西日本新聞コラム】この詩を知っていますか
下掲記事で賞賛されている樺美智子さんの詩を、私(ZERO)は下掲記事で初めて知った。率直に言って「相通じるモノを感じないでは無いが、感銘を受ける程では無い。」であり、「私(ZERO)の胸は、打たない。」と評する他ない。
だが、まあ、この詩自体は、「悪くは無い」とは言おう。
但し、その詩を引用しての、下掲記事=西日本新聞コラムには、多くの点で同意できないぞ。
【西日本新聞コラム】この詩を知っていますか
この詩を知っていますか
2020/6/14 11:00
西日本新聞 オピニオン面 永田 健
1960年6月15日、岸信介政権が進めていた日米安全保障条約改定に反対する学生デモが国会に突入しようとして、阻止する警官隊と衝突した。混乱の中で東大生の樺(かんば)美智子さんが命を落とした。22歳だった。
その日から明日でちょうど60年となる。
樺さんが生前書き、友人に託していた一編の詩がある。それを読んでほしい。
◇ ◇
「最後に」
誰かが私を笑っている
こっちでも向(むこ)うでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々(おのおの)の道を行くだろう
よく云(い)うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れず ほほえみたいものだ
※「人しれず微笑(ほほえ)まん」(三一新書)より
◇ ◇
この詩は60年安保闘争を経験した世代にとっては一種の常識かもしれない。しかし、それ以降の世代では知る人も少なかろう。
この詩をできるだけ多くの読者に知ってほしい、というのが今回のコラムの趣旨である。だからここから先は蛇足のようなものだ。
岸首相が反対を押し切って改定した日米安保条約はその後の日本外交と安全保障の基軸となった。最近の世論調査では日米安保を評価する回答が大多数を占める。それを根拠に60年安保闘争を「空騒ぎ」だったと切り捨てることも可能だ。
一方、当時を知る世代からは、安保反対の市民的デモの広がりこそが戦後民主主義を定着させた、と位置付ける声も上がる。戦後15年を経て、市民が政治的意思を示すのは当然の権利だと確認したのが60年安保だった、という指摘だ。
学生だけでなくさまざまな職業、年代の人々がデモに参加し、国会を幾重にも取り囲んだ。その熱量を今想像するのは難しい。
◇ ◇
岸首相は安保条約改定を果たしたが、混乱の責任を取る形で退陣に追い込まれた。代わって登場した池田勇人首相は「所得倍増」を掲げて経済成長路線をまい進。国民の関心は経済に移った。以後現在まで、あれほどの「政治の季節」は日本に訪れていない。
ここらで最近の検察庁法改正案に対する「ツイッターデモ」に言及し、SNS時代の世論形成などを展望しておけば政治コラムとしては収まりがいいだろうが、やめておこう。
私の関心は、社会を良くしたいという理想に駆り立てられて行動し、倒れた若者の心情にあるからだ。
およそ理想というものに惹(ひ)かれ、それを生真面目に追い求めようとした人間が味わう孤独、疎外、諦め、そしてかすかな希望-。そうしたものの全てがこの詩の中にある。
「理想を追う」とはどういうことか。安保、さらには幾多の社会運動にとどまらない普遍的な人間の苦しみと願いをうたった詩は、樺さんの死から60年たった今も私たちの胸を打つ。
(特別論説委員・永田健)
60年反安保デモの暴力性は、ご存知の筈でしょう。
その「理想に駆られた」と称する「60年反安保デモ」の、少なくとも一部は、投石、ゲバ棒、鉄パイプ、火炎瓶で武装した暴力「デモ」であり、左様な「デモ参加者」は「テロリスト」と見なされるべきである点は、無視ですか?
そりゃテロリストだって生身の人間だ。中には詩の上手いのや、絵が上手なのも居ようさ。だが、その詩や絵の上手さは、テロリストという犯罪を免罪する訳ではあるまい。
樺美智子さんを「テロリスト」と断じるには証拠不十分だとしても、共産主義活動家として暴力ありの反安保デモに参加しているのだから、自身が投石したりゲバ棒振るったりしていなかったとしても、「テロ支援者」であることは免れまい。
樺美智子さんの死因は、一説には「催涙弾の直撃」とされる。催涙弾ってのは催涙ガスを噴出するガス弾で、迎角をかけて曲射し、目標付近に落下させる、と言うのが基本的な使い方だが、死に至る様な「催涙弾の直撃」は、曲射ならぬ直射=水平射撃によるモノと考えるのが、道理だろう。
樺美智子さんの死因は、一説には「催涙弾の直撃」とされる。催涙弾ってのは催涙ガスを噴出するガス弾で、迎角をかけて曲射し、目標付近に落下させる、と言うのが基本的な使い方だが、死に至る様な「催涙弾の直撃」は、曲射ならぬ直射=水平射撃によるモノと考えるのが、道理だろう。
我が国の警察が、機動隊が、「催涙弾を水平射撃する」って状態が如何なるモノか、想像しないのかね、上掲コラムを書いた永田健・特別論説委員殿は。
或いは、「警察なんてのは国家権力の犬だから、平和的デモにでも催涙弾を水平射撃する!」と思って/思い込んだまま今日に至っている、のだろうか。上掲コラムからすると、永田健・特別論説委員殿は、リアルタイムに60年反安保デモをご存知の様にも読めるのだが・・・都合の悪いことは無視ないし忘却した、のだろうか。
60年反安保デモはリアルタイムに知らずとも、「日本の警察・機動隊が催涙弾を水平射撃する」って状態を、一寸でも想像すれば判りそうなモノだ。「暴虐無残な国家権力の手先」なんて偏見が無ければ、左様な状況は、「修羅場」であり、「戦場」であるというのは、「想像に難くない」どころではない。投石、火炎瓶、ゲバ棒(角材)、鉄パイプなどで武装した「反安保デモ」に対し、「国家権力がバックにある」とは言え、催涙弾はじめとする非致死性兵器しか持たない(*1)日本警察・機動隊が対峙しているのだから、場合によっては修羅場にも戦場にもなろうさ。
上掲コラムで同意できない点
真っ先に、樺美智子さんが「理想に駆られた」と称するその「理想」が「日米安保反対」である点に、全く同意できないな。この点は、殆ど生まれながらの右翼たる私(ZERO)と「共産主義同盟の活動家」である樺美智子さんとでは、相容れず相反するの「理の当然」ではあるが。
我が国は貿易立国であり、貿易が海運を基本とする以上、我が国は世界最強の海軍を保有するか、世界最強の海軍保有国と同盟を組むべきだ。見通せる将来にわたって世界最強の海軍を保有するのはアメリカであるのだから、日米同盟=日米安保は我が国にとってベストの戦略である。ベターは、我が国が世界最強の海軍国になること。それも(当然)アメリカをも凌駕する世界最強の海軍国になること、だな。
第二に、先述もしたが「60年反安保デモが間違いなく含んでいた暴力性・テロリズム」をガン無視している点を、全く承服できない。「理想を追う」事を説き、後述の「政治への情熱」と説くならば尚のこと、「60年反安保デモの暴力性・テロリズム」に触れないのは、「片手落ち」所では済まない「歴史歪曲」である。
第三に、「政治への情熱」を訴えるのは勝手だし、「政治的関心の強化」という点では私(ZERO)も首肯できるのであるが、その「政治への情熱」の理想を「60年反安保デモ」に置くことは、「暴力革命の肯定」に他ならない。如何に「歴史歪曲」によって「60年反安保デモ」を「非暴力」として描き出しても、だ。
「革命」も、条件によっては良かろうさ。だが、基本「最後の手段」であるし、理想は「無血革命」である。
再三繰り返す通り、私(ZERO)は「殆ど生まれながらの右翼」であり、それ故に「天皇制廃止=共和制樹立を目指した革命」なんてのは全力で反対し阻止するが、条件によっては、「革命」自身は容認も許容もする。明治維新がある部分「革命」であったとも、考えて居る。また、合衆国憲法の「革命権」も、どちらかというと肯定的に考えて居る。
だが、合衆国憲法の革命権に相応の制約があるのも「道理」と考え、革命、就中「暴力革命」は「殆ど最後の手段」とすべきであるし、どうしても「革命する」ならば、目指すべきは「無血革命」である。「無血革命」が成り立つ様、綿密な計画と周到な準備が必要である。
「革命が成るか成らぬか不明だが、取り敢えず流血=暴力=テロ実行」なんて「無計画革命」「出たとこ勝負革命」は、先ず「最悪の革命」の部類であり、上掲西日本新聞コラムが「理想を追う」と賞賛しまくりの「60年反安保デモ」を仮に「革命の試み」と考えたとしても、「最悪の革命」でしかあり得ない。
事実、その「革命」は、モノの美事に失敗している。流血が少なく、犠牲者が樺美智子さん程度(警察や機動隊には、相応の殉職者が出たろうが。)で済んだのは、勿怪の幸いと言うべきだろう。
- <注記>
- (*1) 警察官が回転式拳銃を所持している可能性は、ある。だが、反安保デモ隊に対し日本警察が発砲したなんて事例は、全く聞いた覚えが無い。
- 米国でライオットガン=暴徒鎮圧用銃というと、ショットガン=散弾銃を意味するのだがね。ああ、ショットガンは汎用性に優れていて、催涙弾を発射できるショットガンもある、そうだけどね。当たり前だが散弾=軍用としては使用が禁じれてている鉛玉だって、撃てるんだぞ。