これこそが、「天皇陛下の政治利用」ではないのかね?ー【東京社説】天皇と靖国神社 不参拝の姿勢は重い
応援いただけるならば、クリックを⇒ https://www.blogmura.com/ranking.html
東京新聞に限ったことではないが、「目的が手段を正当化し、恣意的な基準(ダブルスタンダードないしそれ以上)を適用する」って事が、日本のマスコミ(*1)には散見される。今回取り上げる東京新聞の実績(で、弊ブログで記事にして取り上げた事例)でも「選挙結果に表れた民意」について、「原発容認派が選挙に勝ったが、選挙結果は無視して脱原発に転向/変針しろ」という社説を2,3回も掲げる一方で、先日記事にしたとおり「司法判断は民意に従え」と「三権分立を蹂躙した民意優先=人民裁判」を堂々と主張してしまったりしている。
そんな恣意的基準が珍しくないのが日本マスコミであり、東京新聞なのであるが・・・天ちゃんを引っ張り出すとなると、その「恣意的基準」は看過ならないぞ。
-
<注記>
- (*1) 別に日本にもマスコミにも限った話ではないが
【東京社説】天皇と靖国神社 不参拝の姿勢は重い
天皇と靖国神社 不参拝の姿勢は重いhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019081702000151.html
2019年8月17日
【1】 靖国神社が昨秋、当時の天皇陛下(現上皇さま)に「行幸(ぎょうこう)請願」をしたが断られていた。一九七八年のA級戦犯合祀(ごうし)が天皇の不参拝の契機だとされる。その姿勢はもはや明白で決定的ともいえる。
【2】 天皇と靖国神社とは歴史的に深く結び付いている。戊辰戦争の官軍側戦死者らを弔うために、明治天皇の意向で創建されたからだ。創立五十年の一九年に大正天皇が、創立百年の六九年に昭和天皇が参拝した。今回は創立百五十年の参拝についてだ。
【3】 請願自体が異例だが、それを宮内庁側から断った事実は重い。節目であっても天皇は「不参拝」であり、その姿勢は明確でもある。
【4】 天皇参拝は七五年から途絶えている。背景にA級戦犯の合祀があるとの説が有力だ。七八年に宮司の故松平永芳(まつだいらながよし)氏が主導し、実現した。父は初代宮内府長官の慶民(よしたみ)氏だ。故富田朝彦(とみたともひこ)元宮内庁長官が記したメモが二〇〇六年に公になり、その因果関係が浮き上がった。
【5】 昭和天皇が合祀に触れ「松平は平和に強い考(え)があったと思うのに、親の心子知らずと思っている」と漏らし「あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と不快感を示したのだ。
【6】 松平氏の前任者である故筑波藤麿(つくばふじまろ)氏はA級戦犯合祀に慎重姿勢であり、このメモの正確性が裏付けられる(*1)。昭和天皇が「筑波は慎重に対処してくれたと聞いた」と話したとの記載があった。異論は存在するが、これほど天皇不参拝を説明できる史料はなかろう。
【7】 平成は天皇参拝のない初の時代となった。戦死者を国家が英霊と祀(まつ)り、国民を総動員して戦争遂行した歴史(*2)を踏まえれば、当然の帰結であろう。靖国神社が、天皇や国家のための死を至上の徳と教え込んだ(*3)国家神道の中核施設であった点からも、それは言える。
【8】 憲法は政教分離や信教の自由などを定める。その厳格な保障のため、国家は特定の宗教と絶対的に結び付いてはいけない。天皇と国家神道との関係を再現するかのような目論見(もくろみ)は、いわば究極の時代錯誤でもある。
【9】 戦没者の追悼の在り方は政治問題化している。仮に天皇参拝があれば政治的にも国際的にも多くの反響を呼ぶであろう。政治に関する権能を有しない天皇を政治問題に巻き込むべきでもない(*4)。
【10】 戦没者の慰霊には、現行の追悼式など無宗教の形式がふさわしい。令和の時代も、その意は継がれよう。
-
<注記>
- (*1) ここのところのロジックが、端的に言って「サッパリ判らない」。A級戦犯合祀を実現した松平氏に対し、前任者が合祀に慎重であったことが、どうして「富田メモの信憑性を高める」のだろうか?
- 昭和天皇が、前任者を「親」に喩えた、と言うことか?だとしたら「親の心子知らず」って発言は「前任者の方針は変えてはならない」って意味になるんだが、本当だろうか?
- そもそも、この昭和天皇の発言とされる「親」ってのは、誰のことだ?前任者ってのは上記の通り随分無理のある解釈だし、「赤子たる臣民の親」としての昭和天皇陛下ご自身のことか?だとしたら「親の心子知らず」って発言は、「昭和天皇の意向は、全て汲んで実現しろ」って随分傲岸不遜な主張になる。そいつは逆に「富田メモの信憑性を疑える」材料ではないか?
- (*2) ふざけるな。戦争の中でも総力戦というのは「国民を総動員して遂行する戦争」であり、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスなど第2次大戦の主要参戦国は尽く「国民を総動員して第2次大戦を遂行している」。
- 第2次大戦において「国民を総動員して戦争を遂行する」事に、何の遠慮がいるモノかよ。
- (*3) 更に、ふざけるな。天皇陛下は我が国にしか居られないが、「国家のための死を至上の徳」とする考えは、大日本帝国の専売特許ではなく、相応に普遍性がある。
- 映画「300」を見たことがないのかね?
- (*4) 国に殉じた者を顕彰するのは、国の義務だ。これは古今東西を問わない、普遍的な「国の義務」だ。
- 天皇陛下我が国の象徴であり、我が国そのものを代表されている。
- であるならば、我が国の「国の義務」の遂行法としては、天皇陛下が国に殉じた者を顕彰する事は、あって当然。ないのが不思議、ぐらいなモノだ。
【Q1】昭和天皇は、A級戦犯が合祀されたことを忌避して靖国御親拝を取りやめられたのか?
上掲東京新聞社説は、「昭和天皇は、A級戦犯が合祀されたことを忌避して靖国御親拝を取りやめられた」と断定する根拠として、以下をあげている。(例によって【】内は上掲東京新聞社説のパラグラフ番号)
① 昨年、靖国神社からの御行請願を、現上皇陛下(当時の天皇陛下)が断った。【1】【3】
② 天皇陛下の御親拝は1975年を最後に途絶えている。A級戦犯合祀は1978年である。【4】
③ 昭和天皇がA級戦犯合祀について不満を漏らしたと、故富田朝彦元宮内庁長官メモにある。【4】&【5】
・・・なぁんとまあ、驚くべき事に、上掲東京新聞社説冒頭で真っ先に
1> 一九八七年のA級戦犯合祀(ごうし)が天皇不参拝の契機だとされる。
2> その姿勢はもはや明白で決定的ともいえる。
2> その姿勢はもはや明白で決定的ともいえる。
と、東京新聞が断言する根拠が、上記①「昨年の靖国神社からの御行請願を、現上皇陛下(当時の天皇陛下)が断った」なのである。
昭和天皇、関係ないじゃん。
一応解釈として、「昭和天皇がA級戦犯合祀を忌避して靖国御親拝を取りやめられた」事を受けて、「現上皇陛下(当時の天皇陛下)が御行請願を断った」という解釈は成り立つだろう。だがそれは、「昭和天皇陛下がA級戦犯合祀を忌避して靖国御親拝を取りやめられた」と証するモノでは、全く無い。
残る二つの内、上記②は、「時系列の前後関係」でしかない。言うまでも無いが「時系列の前後関係」は、必ずしも「因果関係を意味しない」。しばしば、誤解誤認される所であるが。
「因果関係があれば、原因と結果は時系列的に前後する」のは確かだが、「時系列的に前後しているから、前の方が原因、後の方が結果、とは限らない。」
となると、殆ど唯一の「昭和天皇がA級戦犯合祀を忌避して靖国御親拝を取りやめられた」と断じる根拠は、上記③「富田メモ」だけ、なのである。特に「忌避して」の部分は、これだけである。
それでは「マズい」と、流石の東京新聞も考えたのか、
3> 異論は存在するが、これほど天皇不参拝を説明出来る資料はなかろう。
等と、実に尤もらしい屁理屈を付けている。
だ・が・・・今更言うまでも無いが、A級戦犯として刑死させられた方々と昭和天皇陛下は、公的繋がりが相当に深い方々だ。
先の大戦=大東亜戦争に対する痛切な反省は、昭和天皇も折に触れて述べられていた所であるが、その大東亜戦争の責任を、「昭和天皇陛下がA級戦犯の方々に負わせる」等という「戦後平和主義的発想」を持たれたとは、私(ZERO)には想像/想定することすら困難だ。事実上の日本占領軍最高司令官たるマッカーサーに対し「全責任は自分にある」と断言断定された昭和天皇陛下が、戦後暫くしてからとは言え、そんな(東京新聞まがいの)「戦後平和主義的発想」をされるとは、全く以て信じがたい。
況んや、東京裁判=極東軍事裁判の経緯が示すとおり、A級戦犯として最終的に絞首台の露と果てた方々は、一人残らず「“戦争責任”を昭和天皇陛下に及ぼすまいと、己が”戦争責任”を全うする」事に尽力されたのである。斯様な経緯/事実を当時の昭和天皇陛下がご存じなかった可能性はあるかも知れないが、「東京裁判の魔手が陛下自身には及ばなかった事実」は、良くご存知の筈だ。
従って、昭和天皇陛下御自身に、大東亜戦争に対する責任感はあったとしても、その責任を「A級戦犯に負わせて良しとする」戦後平和主義的とも東京裁判的とも言うべき発想があったとは、全く思えない、
「A級戦犯の方々が、刑死させられた事実故に、連合国=戦勝国の反応/反感を慮って、靖国御親拝を取りやめられた」即ち「A級戦犯合祀を忌避した」のではなく、「A級戦犯合祀後の靖国神社御親拝に対する連合国=戦勝国の反応/反感を懸念した」と考える方が、遙かに筋が通る。少なくとも私(ZERO)には、左様信じられる。
「昭和天皇陛下が、連合国の反応を気にしてA級戦犯合祀後の靖国神社御親拝を取りやめた」とする史料は、私(ZERO)の知る限り「未だない」。
だが、如何にも戦後平和主義的であり、東京裁判的でもある「富田メモ」に依存依拠する断定断言よりは、随分マシである。大体、「A級戦犯合祀そのものを忌避した」のか「A級戦犯合祀後の連合国の反応を懸念した」のか、真実を本当の意味で判定出来るのは、昭和天皇陛下御自身だけ、だろう。何らかの陛下のお言葉を誰かが聞いたとしても、そのお言葉が本心か否かも陛下御自身しか判らない。判りようがない。
であるならば、「A級戦犯合祀を忌避して」と「A級戦犯合祀後の連合国の反応を懸念して」の少なくとも二案は「併せて考えるべき」であろう。
【A1】 Unknown.少なくとも「昭和天皇は、A級戦犯合祀を忌避して靖国御親拝を取りやめられた」と断じるには、疑問疑義の余地がある。
私(ZERO)としては、昭和天皇が、「A級戦犯合祀を忌避して靖国御親拝を取りやめる」という「戦後平和主義的発想」を抱かれたとは、全く以て信じがたい。
私(ZERO)としては、昭和天皇が、「A級戦犯合祀を忌避して靖国御親拝を取りやめる」という「戦後平和主義的発想」を抱かれたとは、全く以て信じがたい。
【Q2】昭和天皇陛下のご意向は、今上天皇陛下の靖国神社御親拝を掣肘すべきモノか?
史実/事実に依れば、中国や韓国が「靖国神社へのA級戦犯合祀」を問題視し、騒ぎ始めたのは、A級戦犯合祀より10年程経ってからである。この「時間遅れ」は、中国や韓国の「A級戦犯合祀」反対論が如何に怪しげで恣意的かを如実に示しているが、今や「日本国首相が玉串料を靖国神社に奉納しても、文句を付けてくる」事態に至っている。
斯様な状況下で、昨年に上皇陛下(当時の天皇陛下)が靖国神社からの御行請願を断ったことを以て上記1>から2>の通り断定断言するのは、我田引水所か牽強付会も良い処であろう。
仮に、万が一所か億が一、「昭和天皇陛下がA級戦犯合祀を忌避して靖国御親拝を取りやめていた」としても、そんな「昭和天皇陛下のご意向」が、上皇陛下や今上天皇陛下の靖国神社御親拝を直接掣肘し、決する、訳がない。決するべきではない。
それを、実に怪しげな「富田メモ」を根拠として、21世紀の今日只今の靖国御親拝を阻止しようとは、「天皇陛下の政治利用」以外の何であろうか。
【A2】 Negative.今上天皇陛下の靖国神社御親拝は、今上天皇陛下並びに日本政府判断すべき問題である。昭和天皇ご意向は、一つの参考材量でしかない。一つの参考材料以上と、すべきではない。
【Q3】 A級戦犯も合祀されていることを以て、今上天皇陛下の靖国神社御親拝は、廃されるべきであろうか?
言うまでも無かろうが、この【Q3】は、【Q1】の上位に相当する設問であり、「昭和天皇陛下が靖国神社御親拝を取りやめられた理由の如何に関わらず、今上天皇陛下並びに以降の天皇陛下が靖国神社御親拝を為すべきか、否か」という設問である。
上掲東京新聞社説の突っ込みコメントにも入れたが、私(ZERO)の意見は明白である。「天皇陛下は、靖国神社御親拝を、為されるべきだ。」
補足説明するならば、靖国神社は「我が国に殉じた方々を、分け隔てすることなく祀る」事を旨としている。戦犯で在るとか無いとか、A級、B級、C級などの区分、或いは「その後出身地が我が領土でなくなったか否か」に関わらず、「我が国に殉じた方々を祀る」のが、靖国神社である。
一方で、国が英霊として顕彰すべき方々に、戦犯で在るとか無いとか、更には我が国がかつて経験した戦争の「善悪正邪」や「当否」などの判断・判定は、持ち込むべきではない。
理由は(私(ZERO)に言わせれば)明白だ。国が英霊を顕彰する目的の一つは、「将来の英霊を涵養すること」だからである。一朝有事の際に国に殉じる方々が「居ない」となれば、国は滅びるしかないのだかた、国は自存自衛のために「将来の英霊を涵養する」必要があり、義務がある。
一方で「国に殉じた方々」を戦犯で在るとか無いとか、戦争自体の善悪正邪や当否とかで「国として顕彰し、英霊として敬意を表する」対象としない場合がある、としたら・・・次の「国に殉じるモノが必要となった」場合、典型的には「次の戦争」で「国に殉じたとしても、国が顕彰せず、英霊として祀らない」可能性が存在してしまう。
「次の戦争」の善悪正邪や当否が、その戦前や戦時中に判定されるとは限らない。と言うより、そんな判定は「戦後百年も経たないと、中立的客観的な判定は無理」だろう。
であるならば、戦犯判定とか、戦争の善悪正邪/当否判定とかを持ち込むと、「真面に将来の英霊を涵養できない」事になる。従って、将来の英霊を涵養するために、我が国に殉じた方々は分け隔てなく英霊として祀り、国として顕彰すべきである。
誤解のないように付け加えると、私(ZERO)は、我が国の「次の戦争」が「善正」であり「正当」であることを願っており、期待しており、「信じている」と断じても良かろう。序でに言えば、我が国の「先の戦争」たる大東亜戦争にも相応の「善正」性と「正当」性を認めているが、な。
だが、仮に先の大東亜戦争や、我が国の「次の戦争」に「善正」性や「正当」性が「欠片もなかった」としても、「国に殉じる者=英霊が必要な事態に国に殉じる者が居なければ、国は直ちに滅んでしまう」以上、「国は、将来の英霊を干渉しなければならず、そのために国に殉じた者は遍く英霊として祀り、国として顕彰するべき」である。これは、我が国の「次の戦争」の「善正」性や「正当」性とは、別の議論である。
言い換えれば「国に殉じた者たちは、善悪正邪も戦争の当否も超越して、英霊として祀られるべきであり、国は顕彰すべきである。」而してそれは、靖国神社の趣旨とも合致すれば、A級戦犯合祀のも整合するのである。
【A3】 Negative! A級だろうがBC級だろうが、戦犯で在ろうが無かろうが、我が国に殉じた方々を我が国は顕彰すべきであるから、「A級戦犯合祀を以て靖国神社御親拝を廃する」と言うのは、論外である。
英霊たちを顕彰し、将来の英霊を涵養するために、靖国神社御親拝は必要条件ではあるが、十分条件ではない。
我が国が、国として英霊たちを顕彰するのに、陸海空三自衛隊の最高指揮官たる日本国首相と、それに次ぐ指揮官の地位にある防衛相の靖国神社参拝も、必要条件であろう。
我が三自衛隊は今や「皇軍」ではなく、文民統制の元、日本国首相を最高指揮官と仰ぐのであるから。
将来の英霊を涵養するために。
次の戦争で、我が国が(あっさりと)滅びてしまわないために。
それはつまり、我が国の自存自衛のため、でもある。