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 「悪い人でも、死んでしまえば仏様。」ってのは(*1)、日本人の大多数が肯定する「共通心理/共通心情」≒「人情」であろう。従って「死者に鞭打つ」ってのは、日本では最も忌み嫌われる行為の一つである。日本人の端くれである私(ZERO)自身も左様に感じる。
 
 だが、だからと言って「死者を追悼する」形で「己が主張を強調する」ってのは、タイトルにもした通り「死者を盾に取る」行為であり、「死者の権威」と言って悪ければ「死者に対する追悼/哀悼の意を隠れ蓑とした主張」であり、「感心しない」程度では済みそうに無い。

 況んや、国家の安全保障に関わる主張ともなれば、我が国の存亡にも関わる重大事だ。従って、下掲東京新聞社説のような「死者を追悼する形で”使者を盾に取る”我田引水社説」には、敢えて「死者に鞭打ってでも」反論し、抗するべきであろう。
 
 これは、故・梅原猛氏の死に対する追悼/哀悼とは別次元の問題だ。

<注記>

(*1) 出典は?と聞かれれば、落語の「らくだ」にそんな台詞があるな。白土三平の漫画にも(カムイ、だったかなぁ?)にも似た台詞がある。
 落語「らくだ」や白土三平の漫画が「権威ある出典元」とは言いかね様が、この「相当に乖離した二カ所に出典が求められる」と言う事実は、「悪い人でも、死んでしまえば仏様。」と言うコンセプトが広く日本人に浸透していることを、示唆していよう。 

【東京社説】「梅原猛さん死去 「反戦の知」受け継いで
梅原猛さん死去 「反戦の知」受け継いで

2019年1月16日 

【】 哲学者の梅原猛さんが私たちにのこした大きなものの一つは「反戦の知」ではなかったか。歴史や文学、宗教などを統合して築いた「梅原日本学」の根底にあったのは、生きることを尊ぶことだ。 

【】 十二日、肺炎のため亡くなった。九十三歳。 

【】 戦時中、動員の工場で空襲に遭うなど強烈な戦争体験を持つ。戦後は西洋哲学を軸に研究生活に入るが「自分自身の生きるよすがにならない」と感じ、人に生きる希望を与える「笑いの哲学」の創造を発意。「ノートを手に演芸場に通う学者」として有名になった。

 【】 法隆寺が聖徳太子の鎮魂を目的に建てられたとする「隠された十字架」など古代三部作で「梅原日本学」とされる学風を確立した。

 【】 従来の学説を根本から否定する刺激的な論考。実証性が問われ、時に「神がかり」とも批判されたが「神がかりになる、すなわちインスピレーションに導かれて書かれないような作品はろくなものではない」と反論。本紙に四半世紀にわたり執筆した随筆「思うままに」の最終回(二〇一七年十二月)でも、独創的な哲学の確立を志す心境をつづった。

 【】 同時代に向けて盛んに発言し、行動した。国際日本文化研究センターの創設や「ものつくり大学」の開学に貢献する一方、長良川河口堰(かこうぜき)の建設や名古屋・藤前干潟の埋め立て、諫早湾の潮受け堤防の閉め切りなど、自然環境に影響を及ぼす事業を厳しく批判。脳死に関しては、人間の死として認めない論陣を張るなど、伝統的な死生観に即した視座を保ち続けた。

 【】 原発についても「思うままに」では一九九〇年代から「危険であるばかりか、その廃棄物は少なくとも今の科学の発展段階では、現在及び未来の人類の生存に対して脅威」と何度も廃止を説いた。 

【】 特筆されるのは二〇〇四年、護憲の立場から「九条の会」設立の呼びかけ人になったこと。人や動物だけではなく、植物や鉱物にも仏性が宿るという思想を尊ぶ立場から、生命を問答無用で奪う戦争には終生を通じて反対した。 

【】 「日本人のほとんど全部が戦争を始めることに賛成しても、最後まで反対する人間の一人が私であることは間違いない」(「思うままに」〇三年四月)

 【】 他国の脅威を口実に「戦争のできる国づくり」が進む今、この知の巨人が身をもって訴え続けた反戦と生命尊重の思想を、次の時代へしっかり受け継ぎたい。

 国が「戦争できる」のは当たり前。国が「戦争できない」のは国の怠慢で、戦争誘因で、国家存亡の危機だ。

 国が”戦争できない”のは良いことだ/あるべき姿だとする主張は、東京新聞の専売特許では無い。上掲東京新聞社説によると故・梅原猛氏もそうであり、田原総一朗もそんなことを週刊朝日に書いている(*1)。

 我が国にには一定の思想言論の自由があり、「国が”戦争できない”のは良いことだ/あるべき姿だ」と言う主張することには、特段の問題は無い。

 だが、国が”戦争できない”のは良いことだ/あるべき姿だ」と言う主張・思想が「受け継がれる」ぐらいなら未だしも、我が国の多数派となり(*2)、我が国を「戦争できない状態にする」ないし「戦争できない状態のままとする」ならば、大変困ったことになる。

 何が困るかというと、「我が国が、滅びてしまう」可能性があるから、困る。

 国が「戦争できない状態」と言うことは、その国に戦争しかければ「必ず勝てる」という状態だ。戦争に勝てば、賠償金を取る(最近、これはあまりやらないが。なぁに、あまりやらない、だけだ)、領土を割譲する、統治権など主権の譲渡/侵害、都合の悪い人間の排除(*3)、憲法の強制など、大概のことが出来る。

 「戦争に勝つ」とは、21世紀の今日でも相当な利益/利点であるし、「戦争に負ける」とは「国が滅びる」事もありうる一大事だ。

 であるならば、国は「滅びないように」しなければならないから、「戦争できる状態」にしようと、努力しなければならない。万一その国が「戦争できない状態」であるならば、そんな状態は「少なくとも外国に知られないように」しなければならない。

 ならばこそ、タイトルにもした通り「国が“戦争できる”のは当たり前」であり、章題にした通り「国が”戦争できない”のは国の怠慢(*4)で、戦争誘因だ。」これは、故・梅原猛氏が如何に優れた哲学者で戦争体験者であろうとも、変えようが無い、冷厳たる事実だ。

 従って、

1> 他国の脅威を口実に「戦争のできる国づくり」が進む今、

と言う「今」は、「我が国が、国としてまともに機能している」という慶賀すべき状態であろう。

 逆に「戦争のできる国づくり」をロクに進めなかった歴代政権は国賊的な怠慢だったのであり、その筆頭は、民主党政権三代であろう(*5)。

 更には、(上掲東京新聞社説の見解では)「我が国は未だ”戦争できる国となっていない(*6)”」のだから、「”戦争できる国づくり”は、急がねばならない」と言うことだ。

 他国は、同盟国でも無い限り、基本的に「脅威」だ。これは「口実」なんてモノでは無く、紛れもない事実だ。
 
 況んや、再三我が国にに核恫喝をかけた北朝鮮や、「核心的利益」なる侵略宣言を出している中国は、「口実」もへってくれも無く、紛れもない「脅威」でああろうが。

 故・梅原猛氏への追悼を「口実」に、「”戦争のできる国づくり”に反対」なんて、平和ボケも大概にしやがれ。

 それにつけても、北朝鮮は滅ぼすべきだな。

<注記>

(*1) 【週刊朝日】田原総一朗 「”軍隊”認める自民党議員は田中角栄の言葉を受け止めよ」 Nutz! 

(*2) 「そんな馬鹿な!」と言いたいところだが、かつて、あ・の・鳩山由紀夫率いる民主党を衆院選挙で「憲政史上最多の議席数を擁する最大与党」にしてしまったのが、我が日本国民だ。 

(*3) 失脚、公職追放、失職、軟禁、国外追放、投獄、処刑 等を含む 

(*4) それも、正真正銘掛け値無しで「売国的怠慢」であり「国賊的怠慢」である。 

(*5) 尤もこの点では、現副大臣である麻生氏の責任も、第一次安倍政権の責任も、皆無とはしがたいが。 

(*6) 「”戦争のできる国づくり”が進む」とは、そう言う意味である。他に解釈があろうか?