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【東京社説】「オウムの死刑 制度の在り方の議論も」
【東京社説】「オウムの死刑 制度の在り方の議論も」オウムの死刑 制度の在り方の論議も2018年7月27日【】 オウム真理教事件の死刑囚六人の刑が執行され、事件の死刑執行はすべて終わった。だが、日弁連などは死刑制度の廃止を求める声明を出している。不透明な制度の在り方などの論議は必要である。
【】 七月だけでオウム事件の幹部ら十三人が処刑されたことに異様さを感じる人も多かろう。これほどの人数の死刑執行がなされたことがないからだ。法務相によっては宗教観などから執行命令書に署名しない人もいた。ある同省幹部が「平成の事件は平成のうちに」と語ったと伝えられる。
【】 来年の天皇陛下の退位を念頭に置いた発言だろうが、それにしてもなぜオウム死刑囚に限っての一斉処刑なのかの答えにはならない。前回は元代表の麻原彰晃元死刑囚やサリン製造役が中心で、今回は林泰男死刑囚ら地下鉄サリン事件の散布役が中心だった。
【】 法務省は一連の執行順序についての理由をほとんど説明しないでいる。不透明だといわざるを得ない。「執行は当然」という遺族の方々の心情はもっともである。それでも心神喪失が疑われたり、再審申し立てやその準備の段階にある場合はどう判断しているのか、それを国民に説明しない姿勢には疑問を持つ。
【】 死刑は国家権力の最大の行使でもあるからだ。一〇年の千葉景子法相時代は報道機関に刑場の公開をしたこともあるが、それ以降はそんな雰囲気も消えてしまった。
【】 近代刑事法は「あだ討ち」を否定し、犯罪への応報と更生をめざしている。かつ死刑囚の冤罪(えんざい)が明らかになった事例もある。
【】 世界百四十二カ国は死刑の廃止・停止であり、欧州連合(EU)に加盟するには、死刑廃止国であるのが条件になっている。OECD加盟国でも、死刑制度があるのは日本と韓国・米国だけだ。でも韓国はずっと執行がない事実上の廃止国である。米国も十九州が廃止、四州が停止を宣言している。つまり、死刑を忠実に実行しているのは日本だけなのだ。
【】 誤った司法判断なら取り返しの付かない究極の刑罰であり、究極の人権を奪う刑罰でもある。内閣府の世論調査では「死刑もやむを得ない」が八割だが、うち四割は「状況が変われば将来的には死刑を廃止してもよい」。終身刑の導入なら「死刑を廃止する方がよい」が四割である。
【】 国連からは死刑廃止の勧告を何度も受け続けている。もっと国際的な批判を真面目に受け止めた方がよかろう。
問うべきは、「何故確定死刑囚約百人が未だ死刑執行されないか?」だ。
その答えの一端は、上掲東京新聞社説にも在る。
1> 法務相によっては宗教観などから執行命令書に署名しない人もいた。
・・・左様な法相は、法相としての責務を全うせずにサボっており、そもそも法相になるべきでは無かった、と言うことだ。
死刑執行書への署名は、法相の、法相にしかなし得ない仕事だ。ならば法相になる者には、「死刑執行書に署名する」覚悟が必要で、そんな覚悟が無いモノは法相になる資格が無い。これは、宗教観とか、思想信条の自由とは別の、法相としての職責の問題だ。
2> 法務省は一連の執行順序についての理由をほとんど説明しないでいる。
・・・確定した死刑を半年以内に執行することが法律で決まっている。大体上記1>の通り「法相が署名しないから死刑執行出来ない」事例を東京新聞自体が認めており、且つ確定して死刑執行待ちの死刑囚が約百人も居る現状は、「死刑執行順序が法相の署名順に決まる」ことを、相当強く示唆している。
3> それでも心神喪失を疑われたり、再審申し立て中やその準備の段階に在る場合はどう判断しているのか、それを国民に説明しない姿勢には疑問を持つ。
・・・「心神喪失の疑い」は、裁判で一定の決着を見ている。
「再審申し立てやその準備」の内「再審申し立て」は「確定した死刑は半年以内に執行」の「半年」を延期・延長する理由とは(法律上)なっている。が、それだって常識的限度という者があろう。況んや「再審申し立ての準備」なんぞ、死刑執行中止・中断の理由にはならない。
つまり、上記3>で東京新聞が揚げる要因を、「国民に説明する」必要は、ほぼ無い。
「国民に説明する」必要が在るのは、「確定しながら未だ執行されない死刑囚」の方だ。
「国民に説明する」必要が在るのは、「確定しながら未だ執行されない死刑囚」の方だ。
4> 死刑囚の冤罪(えんざい)が明らかになった事例もある。
「冤罪の可能性」は、いつだってあるし、何をしたってあるさ。「無くなる」なんてことは、あり得ない。「冤罪の死刑」が悪くて「冤罪の終身刑」なら良い、訳ではあるまい。
死刑制度は、「冤罪による死刑執行の可能性」を含めて、死刑制度だ。 「冤罪による死刑の可能性」は確実に「ある」が、それでも「死刑制度のある社会(日本の現状)」と「死刑制度の無い社会(EU等の現状)」を比べて前者を選ぶのが「死刑制度の肯定」だ。その点について真剣に真摯に考えるのは結構だが、「外国で死刑制度廃止国が多い」だの「国連が死刑制度廃止を勧告している」などの「外圧」で、我が国の法制度、我が国の社会の在り方を、決めるべきでは無い。
さらに言えば、死刑制度の存廃議論と、現行確定死刑囚に対する死刑執行は、別の問題だ。死刑制度は存廃議論中であろうとも、我が国の死刑制度は厳然としてあるのだから、確定死刑囚に対し死刑執行されるのは当然で、それは「死刑制度の存廃議論」とは無関係とすべきだ。さもないと、三権分立が崩れることになる。
「死刑制度はあるが、死刑執行は停止している韓国」を上掲東京新聞社説は持ち上げているが、それは「少なくとも、法治主義の点から異常事態」であろうが。
諄いようだが繰り返すが、我が国には死刑制度が厳然としてあり、確定した死刑囚が居る以上、死刑は粛々と執行されて当たり前だ。
死刑執行が停止されるのは、死刑制度が廃止された後であって、前では無いのが、原則であろうに。
それはそれとして、北朝鮮は滅ぼされるべきである。