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  東京新聞が、「日本の平和主義」と銘打った社説の連載を開始した、らしい。「日本の平和主義」と言い条、要は「安倍首相の憲法9条改正発言に対する批判」が主眼の様だ。

 大凡、全国紙電子版の社説はその日の早朝…と言うよりまだ深夜と言えそうな、午前3時とか4時とかに更新され、「その日の朝刊の社説がネット上に公開される」のだが、どうも東京新聞電子版のこの日の社説は「とうに夜が明け、会社によっては始業時間を過ぎた頃に更新された様だ。つまりは、「東京新聞の社説としては(*1)随分遅く更新された」様である。

 「それだけ、苦労して書いた社説」なのではないかと、邪推も巡るが、さて、その中身はと言うと…
 

<注記>

(*1) 急いで付け加えると、沖縄二紙の社説光進は、かなり遅くて大凡10時頃。
一般的な店舗の開店時間ぐらいだ。
 その日の社説は、当然その日の朝刊に載って、「印刷された紙面」として各戸や売店に配送されるのだから、この「沖縄二紙社説のネット配信遅れ」は、多分「ワザと」だろうな。 

(1)【東京社説】日本の平和主義 「改憲ありき」が透ける
【東京社説】日本の平和主義 「改憲ありき」が透ける 


Tweet 2017年5月17日

【1】 戦争放棄と戦力不保持を定めた憲法九条改正は、自民党結党以来の「悲願」ではある。しかし、安倍晋三首相の九条改正論は、内容にかかわらず、憲法の改正自体を目的とする姿勢が透けて見える。

【2】 まずは、自民党の政権復帰直後のことを振り返りたい。安倍首相は二〇一三年一月、本紙のインタビューに「憲法改正は衆参両院ともに三分の二の賛成があって初めて発議できる。極めて高いハードルだ。現実的アプローチとして、私は九六条の改正条項を改正したい」と答えている。

【3】 憲法改正がしやすいよう、発議要件を「二分の一」以上に緩和した上で、具体的な改正に取り組む段階論である。しかし、「姑息(こそく)な手段」などと猛反発に遭い、首相もその後、言及しなくなった。

【4】 首相が次に持ち出したのは、大地震など自然災害や、武力攻撃を受けた場合に政治空白を避けるための「緊急事態条項」追加だ。

【5】 衆参両院の憲法審査会では、その是非についても各党が見解を表明したり、参考人から意見を聞くなど、議論を続けている。

【6】 しかし、自民党の改憲草案が緊急事態の際、内閣が法律と同じ効力の政令を制定できることや、一時的な私権制限を認める内容を盛り込んでいることもあり、議論が前進していないのが現状だ。

【7】 そこで、首相がこの五月に持ち出したのが九条一、二項を残しつつ、三項を設けて自衛隊の存在を明記する新たな改憲論である。

【8】 国防軍の創設を盛り込んだ党の改憲草案よりも穏健に見えるが、歴代内閣は自衛隊を合憲と位置付け、国民の多くも自衛隊の存在を認めている。わざわざ憲法に書き込む必然性は乏しい(*1)。

【9】 一連の経緯を振り返ると、首相の改憲論からは、改正を必要とする切迫性が感じられない。あるのは、首相在任中に憲法改正を成し遂げたいという「改憲ありき」の姿勢だ。東京五輪の二〇年を改正憲法施行の年と期限を区切ったのも、自らの在任期間を念頭に置いたものだろう。

【10】 そもそも憲法の改正は、多くの国民から求める声が湧き上がったときに初めて実現すべきものだ(*2)。

【11】 憲法に縛られる立場にある行政府の長が、この部分を変えてほしいと指定するのは(*3)、立憲主義はもちろん、憲法の尊重・擁護義務に反し、幅広い合意を目指す憲法審査会の努力(*4)をも踏みにじるものである。党総裁との使い分けも、正当な主張とはおよそ言えない(*5)。

<注記>

(*1) 前日の社説で九条は自衛戦争も含めた一切の戦争と戦力を放棄したという、憲法の読み方である。」と断言し、「九条の死文化は許さない」と主張し、かつ学問の上では(自衛隊)違憲・合憲のやりとりは今も続くと認めた東京新聞社説が、「国民の多くも自衛隊の存在を認めている」から「わざわざ憲法に書き込む必然性は乏しいと断言するロジックは、狂気でなければ「日本国憲法9条信仰」とでも言うべきか。
 「国民の多くも自衛隊の存在を認めている」ならば、その自衛隊の存在を認めていない(と言う解釈も十分成り立つ)日本国憲法は「改憲されるべき」と言うのが、普通のロジック・考え方だろうが。 

(*2) オイオイ。前日の東京新聞社説に「学問の上では(自衛隊)違憲・合憲のやりとりは今も続く」とあるのに、前日及び上掲の東京新聞社説にある通り「国民の多くも自衛隊の存在を認めているならば、少なくとも憲法9条改憲は民意に沿う」とは言い得るだろう。

 「国民の自衛隊理解」と「憲法9条」との間に存在する齟齬・乖離に対し「多くの国民から憲法9条改正を求める声が湧き上がっていない」のは、「そういう形をとって居ない」だけじゃないのかね。

 大体、日本国憲法自身に憲法改正発議は国会によると「文字として書かれている」と言うのに、「そもそも憲法の改正は、多くの国民から求める声が湧き上がったときに初めて実現すべきものだ」と、何を以って断言しているのかね。

 それは、「日本国憲法改正手続きを蹂躙する、憲法違反」ではないのかね。 

(*3) 日本国首相は、国会の最大党の党首じゃないか。 

(*4) って、何かやってるの? 何かやっている様ならば、安倍首相も別に「口出し」する必要もないだろうがね。
 
(*5) 何だ、この個人攻撃、と言うよりイチャモンンは。 

先行記事にした朝日社説にもあったが、「現行憲法に記載されていない改正手続きを求める」のは「現行憲法違反」の疑いがある

 他でもない日本国憲法には、「国会の2/3以上の賛成で発議し、国民投票の過半数で承認」と改憲手続きが「文字として書いてある」のだから、これに「新たな改憲手続きを追加する」のは「この改憲手続きを無視する」のと同様に「現行日本国憲法違反の疑いがある」事は、一寸やそっとじゃぁ免れそうにない。

 ああ、つい先ごろまで(今でも、か)「我が国(日本)は集団的自衛権を有するが、集団的自衛権の行使は日本国憲法違反だから、我が国(日本)は集団的自衛権を行使できない」なんて奇妙奇天烈な「解釈」を受け入れて便々として居られるような(*1)憲法学者諸氏が上掲朝東京社説や先行記事朝日社説「日本国憲法改正手続きハードルアップ」を「どう考えているか」なんて、私(zero)の想像力を絶している、と考えるべきだろうが…「東京&朝日社説の憲法改正手続きハードルアップは、日本国憲法には文字として書かれてはいないが、精神としては正しい。」とか何とか、言い出しそうだな。

 もし、左様に憲法学者が主張するならば…それはもう、「成文憲法」ではないな(*2)。成文憲法の形こそとっているモノの、そこに「文字として直接書かれていない”精神”こそが憲法の”本質”」であるならば、その「憲法の”精神”」を読み取るだか読み解くだかする「憲法学者」様が「憲法の”精神”」を一般大衆=憲法学者ならざる者(*3)に「伝える」しかない…宗教改革以前のキリスト教並みだな。マグナ・カルタ大憲章は何処へ行ったんだろうね。
 自称憲法学者=実質・憲法信者では、それも致し方なかろうが。

 ま、憲法学者の空理空論(それも、私(zero)の想像/推定でしかない(*4))はさておこう。「憲法改正手続きのハードルアップは、現行日本国憲法違反の疑いがある」ってのも先行朝日新聞社説批判でも指摘したから繰り返すまい。

 ここでは、上掲東京社説タイトルにもある「安倍首相の強い改憲意思に対する批判」に絞ろう。それは、上掲東京社説で言うと、最後のパラグラフ【11】に最も端的に表われていよう。

1〉 憲法に縛られる立場にある行政府の長が、この部分を変えてほしいと指定するのは、
2〉 立憲主義はもちろん、憲法の尊重・擁護義務に反し、
3〉 幅広い合意を目指す憲法審査会の努力をも踏みにじるものである。
4〉 党総裁との使い分けも、正当な主張とはおよそ言えない。

 まず、上掲パラグラフ【11】のロジックに従うならば日本国首相も閣僚も「憲法に縛られる立場にある行政府」に所属するが故に「改憲について積極的に発言する」事は上記2〉「立憲主義はもちろん、憲法の尊重・擁護義務に反」するので、「許されない」と言う事になる。

 日本国首相も、閣僚の半数以上も、「改憲を発議する権利を持つ国会の議員である」にも拘らず、だ。上記4〉「党総裁との使い分けも、正当な主張とはおよそ言えない。」とまで明言・断言されている。

 いや、それどころか、些か「行間を読む」=「文字として書かれていないことも推測推論する」ならば、「憲法に縛られる立場にある行政府」に所属する首相並びに閣僚は、「憲法の尊重・擁護義務を有する」が故に、国会議員としては「全ての改憲発議に反対票を投じないといけない」事になる。

 いやいや、それどころじゃぁないぞ。何しろ日本国憲法99条には、
〉第九十九条

〉 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、
〉この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

、「文字として書かれている」のだから、「憲法の尊重・擁護義務」故に「改憲か所を指定できない」とするならば、そもそも「国会議員による改憲発議は不可能」となってしまう。

 日本国憲法には、大変ハードルは高いが改憲手続きが「文字として書かれている」にも拘らず。

 であるならば、この日本国憲法99条に基づく「憲法を尊重し擁護する義務」は、少なくとも国会議員に関する限り、「憲法改正を議論し、投票することを、禁じる訳がない」。安倍首相並びに閣僚が、私人ないし一国会議員として改憲を論じ、改憲箇所を指定することを、少なくとも日本国憲法は掣肘しない、筈である。

 これは、上掲東京社説・上記4〉で言う「党総裁との使い分け」で「正当な主張とはおよそ言えない。」のであろうか?上記4〉の通り、正しく東京新聞は左様に主張し、上掲社説の「〆」としている訳だが。

 そりゃ、その方が、「日本国憲法改正に反対する」東京新聞としては都合が良かろうさ。だがそれは、「日本国憲法を相当に曲解した上での言論封じ」ではないのかね。それではジャーナリズムが泣こうと言うモノだ。

 無論、東京新聞にジャーナリズムなんてモノが、まだ幾らかでもあれば、の話だが。
 
 上記以外の上掲社説の安倍首相憲法改正発言批判としては、「安倍首相の憲法改正積極姿勢」があげられている。が、首相・閣僚としてならいざ知らず(*5)一国会議員としては「改憲を論じる事が出来る」ならば、「改憲に対して積極的」なのは、「安倍首相の勝手」ではないか。少なくともその「積極姿勢」だけで批難するいわれは…ああ、東急新聞なら何か持ってきそうだな。ま、良いや。まずはその「安倍首相の会見せっきょく姿勢を批難する根拠」をちゃんと示しやがれ。

<注記>

(*1) どころか、「何の疑問も違和感も感じない」らしい 

(*2) 或いは、自称「憲法学者」であって、実態は「憲法信者」であるか。その可能性は、相応に高そうだが。 

(*3) 私(ZERO)を含む 

(*4) だが、相応に自信はあるぞ。 

(*5) 首相・閣僚は「憲法に縛られる立場にある行政府」であるから「改憲を論じられない」ってロジックに私(zero)は納得していない。「死刑囚が死刑を論じること」も「服役囚が法律を論じること」も、禁止されるべきとは言えまい。