マンガ「アルテ」 大久保圭・作
応援いただけるならば、クリックを⇒ https://www.blogmura.com/
「マンガ」「まんが」「漫画」と、日本語ではおおよそ3通りの表記があるが、どれがどうと言うほど「意味の違い」はない。が、これが英語になるとCartoonとComicに大別される、らしい。
Comicと言う方が日本語の「マンガ」に近く、連続したコマ割によるストーリーマンガなんてのはこちら。スーパーマンもスパイダーマンもComicだ。
一方のCartoonは「時事風刺漫画(通常一齣)」と辞書にもあるから、新聞の2面から5面あたりにある「一こま風刺漫画」がそれに当たる、らしい。「風刺」であるから当然政治的主張が込められており、それ故に政治的であり、思想的である。「サリーの下の蠱惑的な肉体をさらす女性に対し、取り囲んだ聖職者男性の鼻が勃起した男根形状を成す」などと言うCartoonでは、イスラム原理主義者から命を狙われかねない。それぐらい政治的(な可能性がある)のがCartoonだ。
ならば、CartoonならぬComicが「政治的ではない」と言えるかというと、勿論そんなことはなくて、作者次第で「政治的なComic」はいくらも作りようがあろう。漫画ではないようだが「政治的に正しい昔話」などと言うモノは「政治的意図が先に立った」作品、と言えそうだ。
一方で、「政治的意図が先に立た」ずとも、あるいは極端には「作者自身に政治的意図が全くない」場合でも、作品に政治的意図がある/見出される(*1)、事もあろう。ここで言う「作品」は、マンガ、Cartoon、Comicに関わらず、だが。
しこうして、左様な「政治的意図が先に立たないが、自ずと”政治的意図”が見えてくる/読めてくる作品の方が、かえって強烈・強力な政治的意図を表明しうる」のでは、なかろうか。理論理屈よりも、実感・体験をベースとした方が「より説得力ある政治的意図」となりうるように。
左様な、埒もない「マンガと政治的意図との関係」を考えたのは、「歴史を題材にしているとは言え、政治的意図が先立っているとは思えないマンガに、読んでいる内に”政治的意図”を読みとるようになったから。」その作品が今回取り上げる「アルテ」だ。

時は・・・中世の終わり、ルネサンスの黎明期を告げる頃。ところは、今で言うイタリアはフィレンツェ。貴族の娘として裁縫刺繍などの一通りの嗜みを身につけながら、能動的に動くのは「絵画のみ」という、ある意味「究極的な絵画お宅」である主人公・アルテは、そんな「趣味」に一定の理解を持っていた父の死と共に、「結婚のための持参金にも事欠く」現状に直面させられる。そんな窮状にも何とか持参金を工面して「娘・アルテに良縁を」と奔走尽力する母、「女の幸せは、幸福な結婚に尽きる」と信じる母に対し、「結婚でも修道女でもない第三の道」として主人公・アルテが選んだのは、絵画の道。即ち、既に当時(フィレンツェなどでは)産業化されていた、「絵画職人=絵描き」として生きる道だった。
とは言え、そこは中世未だ健在なる当時のこと。「女」と言うだけで、工房への弟子入りどころか、描いた過去の作品を見ることさえなく門前払いを喰らい続ける主人公・アルテが、「ならば、女なんか捨ててやる!」と、断髪式よろしく自らの髪をぶった切る、って所から、この話「アルテ」は始まる(*2)。
フィレンツェ中の工房という工房から弟子入り門前払いを食らったアルテが、「親方となりながら弟子一人取っていない」レオ親方に、半ば押しつけられる様にして出会う。無精ひげに立派な体格であり、親方として若い方の「レオ親方」は、「親方としてまだ若い」のも道理。まだ若き天才(*3)、レオナルド・ダ・ビンチだ。
後に「モナ・リザ」などで世界的歴史的偉業を達するレオナルド・ダ・ビンチが「絵が好きだから、絵描き職人になりたい」と抜かすアルテに出した「どうせこんな事は出来ないだろう」と課した課題を、「難なく」とは言わないが、アルテはモノの見事に達成してしまう。
「絵が好きだから」なんてきれいごと、建前ではなく、「絵を描く職人であることが、経済的に自立する女性である為の手段であるから。」と言う、切実な理由によって。それは同時に、当時相当に根深くあった「女性差別」に対する「アルテの怒り」でもある。
その「アルテの怒り」に、かつて物乞いの息子であり、為に工房への弟子入りを拒否されてきた経験を持つ「レオ親方」は、ある種の共感と既視感と共に、アルテの弟子入りを認める。
その後、「自立する女の地獄への入り口」を回避したり、フィレンツェ同業組合の反発と難題をクリアしたり、針子のダーチャと出会って彼女が抱えた難題を一緒に解決したり、ジェノバの有力貴族ユーリに「姪の作法の家庭教師兼肖像画家」としてスカウトされたり・・・アルテ、八面六臂の大活躍。
女性の作者が描く「美少女成長物語」だから、女性としての視点・主張が強いのは当然だろう。冒頭の「断髪式」からして「女性差別に対する怒り」の象徴だ。だが、私(ZERO)が「マンガ”アルテ”に於ける政治性・思想性」を改めて感じるようになったのは、最新刊5巻で「ユーリの姪・カタリーナ嬢の作法の家庭教師」として赴任してきた「ジェノバ編」を読んで、だ。
このカタリーナ嬢、実は礼儀作法は知識も実践も完璧。だが人前では、頑なに「礼儀作法はできないフリをする」。その訳は・・・ネタばらしになるのでこれ以上は書かないが、そこに「四民平等(*4)」とも言うべき「平等思想」を感じ、その平等思想に、「アルテ」1巻冒頭から連綿と繋がる「女性差別への怒り=男女平等思想」との通底を感じたから。
左様、その「平等思想」こそ、マンガ「アルテ」に私(ZERO)が見出した「政治性・思想性」なのである。
歴史を背景とした歴史物である以上、かかる「平等思想」は「現代語訳が過ぎる」可能性は常に警戒しなければならないだろう。だが、その「警戒」は「作品と史実を混同しないための警戒」であって、「作品の政治性・思想性を弱める/弱まるモノではない」だろう。
ブッチャケ、私(ZERO)は、今更ながら見出した政治性・思想性も含めて本作品「アルテ」が大変気に入っている。無論、「元気でまっすぐなだけが取り柄」@レオ親方 の主人公・アルテを含めて、だ。
私(ZERO)自身男性であり、それ故にある部分「アルテの敵」となりうる、にも関わらず。
新刊・5巻の「ジェノバ編」は6巻にも続く。そればかりではないが、今後の展開も、アルテの成長も、楽しみな作品だ。

<注記>
(*1) 何度か繰り返すとおり、「作品の価値を決定するのは、受け手(読者、徴収、視聴者、鑑賞者・・)であり、受け手しか決定できない」のである。(*2) この後、さらに乳房を切り落とそうとして、レオ親方に羽交い締めで止められる・・・って「ヴェニスの商人」かよ。フィレンツェなのに。(*3) それも、画家、彫刻家、設計技師、等々、万能の天才。その人力ヘリコプターはかつて全日空機の尾翼を飾ったし、円錐形無敵戦車は現代でもある種の理想像だ。映画「ハドソン・ホーク」の冒頭では、錬金術を完成させてしまっていたな。
(*4) この四文字熟語自体は、ご承知の通り明治政府のキャッチコピーだが。」