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[大弦小弦]お父さん、お母さんたちが殺されていく…

2016年10月3日 07:00阿部岳 Tweet

 「お父さん、お母さんたちが殺されていく。そばにいてほしいのに」。米ノースカロライナ州に住む黒人の9歳少女が、公聴会で涙をこぼして訴えた。「私たちには人権が必要です。だから抗議しています」

▼全米で、警察官による黒人射殺が止まらない。公聴会のきっかけになった9月の事件は、被害者の妻が撮った動画がある。「どうか生きていて」と繰り返す叫びが耳に残る

▼アメリカンフットボールのスター選手は、試合前の米国歌斉唱で起立するのをやめた。「有色人種を抑圧する国の旗に誇りを示すことはできない」と宣言。賛否両論の渦に向き合っている

▼この選手について、米有力誌が記事を載せた。「日本人じゃなくてラッキーだった」というのだ。君が代斉唱を拒否し、繰り返し処分を受けた教員が「日本なら選手生命は終わり」とコメントしている

▼否定はできない。オバマ大統領は選手による異議申し立てを「憲法で保障された権利だ」と擁護した。片や森喜朗元首相は五輪選手に「国歌も歌えないような選手は日本の選手ではない」と言った

▼米国の差別は深刻で、だからこそ命懸けで立ち上がる勇敢な人々がいる。日本にも差別はある。立ち上がる勇気は、異論を受け止める土壌はあるか。太平洋の向こうの少女とスター選手は、私たちにも問い掛けている。(阿部岳)



日本で「警官に射殺される人間」が、年に何人いる?比較するも馬鹿らしい。


 大分前のデータであるが、勤務中に警官が使う銃弾は、日本全国で年間20発以下と聞いた。このデータは随分古そうで、今は増えて居そうではあるが、日本で「警官に射殺される人間」がこの前発生したのは、何時だったかね?確か、車盗んで逃走を図って暴走して射殺され、その射殺した警官を問題視して裁判沙汰となった事例(*1)では、なかったかね。

 全米で、警察官による黒人射殺が止まらない。」ってのも、実にヒドイ表現だ。そりゃ墜落事故が後を絶たないオスプレイ」などと平気で表記する(*2)沖縄二紙であるが、銃社会であるアメリカで「警察官に射殺される犯罪者・容疑者」は相応の数が居る。その「犯罪者・容疑者」の相当部分は黒人だから、「警察官による黒人射殺」が「止まらない」のは、ある意味「当たり前」。大体、警察官だってある割合で黒人警察官であろうに、「警察官による黒人射殺」を「差別」と断じるばかりか、この表記では「警察官による黒人虐殺」かの如くだ。

1〉 「お父さん、お母さんたちが殺されていく。そばにいてほしいのに」。
2〉 米ノースカロライナ州に住む黒人の9歳少女が、公聴会で涙をこぼして訴えた。

 その「殺されていくお父さん、お母さん」は、「警察官に射殺される」ぐらいであるから、少なくとも「犯罪の容疑者」なのではないか?さらには、ある割合で、実際に犯罪者であろう。

 無論、「犯罪者、ないし容疑者であれば、射殺して良い」なんて事は無い。だが、先述かつ衆知の通りアメリカは銃社会だ。犯罪者ないし容疑者が銃を所持している可能性は相応にある。その犯罪者・容疑者に対峙する警察官としては、「相手は銃を所持している」、少なくとも「銃を所持している可能性がある」として対処するだろう。当然、「警察官に射殺される犯罪者・容疑者は増える」し「後を絶たない」。それは「銃社会アメリカの、銃社会ゆえの不幸」ではあろうが、「銃社会ゆえの冷厳な現実」であって、差別云々の問題では無い。


<注記>

(*1) で、理の当然ながら警察官は無罪となった”事件”で、弊ブログの記事にもなったな。 

(*2) ならば、「墜落事故が後を絶った機種」を、挙げて見やがれってんだ。大凡、「墜落事故が後を絶った機種」とは、「最早飛んでいない機種」である。

 「最新機種で、まだ墜落事故の事例が無い」場合も一応考えられるが、それとて”墜落事故が後を絶った”と断じるのは、少なくとも早計。多分、誤りである事が、「初の墜落事故」で「証明」されよう。 



国歌斉唱に起立しなかったアメフト選手の例も酷いな


 「米国国歌斉唱での起立を止めたアメリカフットボールのプロ選手」は、アメリカを代表しては居ないのだから、五輪選手とは異なろう。「国歌も歌えないような選手は日本の選手ではない」と言うのは、少なくとも五輪選手に関する限り、極めて真面な見解だ。

一番ひどいのが、「俺たちも、差別されているぅぅぅぅぅ(但し、言外)」


 ああ、awamoriさんや星の旅さん張りの「文言として書かれていないことは、主張していない」と言う「文言教条主義」に従えば、上掲沖縄タイムスコラムに「米国の告示と同様に、日本の沖縄も差別されている」とは「文字として書かれていない」のである。

 最終パラグラフには
 
3〉 太平洋の向こうの少女とスター選手は、私たちにも問い掛けている。

としか書かれていないから、「あくまで、日本における差別一般の事と主張出来よう。 

 だが、どうだろうねぇ。沖縄二紙の「日ごろの言動」からも、上掲琉球新報コラムが「言外に匂わせ、行間に書いている」事は、殆ど自明じゃなかろうか。

 而して、「自分たちは差別されている!」と主張する輩は、喰うに困りもしないのに「相対的貧困(*1)」を主張する輩と同じぐらい信用ならないんだがね。


<注記>

(*1) 喰うに困らず、餓死の怖れも無いような状況を「貧困」とは言わない。「相対的貧困」なんて主張は、貧困状態にある者に対し失礼で、ある種冒涜でさえある。

 それは、格差かも知れない。不平等かもしれないし、不条理でもあるかも知れない。が、「貧困」ではない。