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 21世紀のベルリンで、「あの」アドルフ・ヒトラーが往事の風貌記憶そのままで「目を覚ます」・・・SFならば「第2次大戦末期の総統大本営からタイムスリップした。」と説明するところだろうが、これはSFと言うより政治威風私小説なので、そんな「科学的説明」は歯牙にもかけず、当のヒトラー本人も「神の御心によって、21世紀の”統一(*1)”ドイツに遣わされた」として「神意に沿おう」と決心する・・・ある意味、総統、もとい、相当「迷惑な話」であるが、そんな「迷惑な話」になるからこそ政治風刺小説となるのだから、ある意味「仕方がない」。

 その風貌と言動から、「ヒトラーを風刺するコメディアン」と勝手に誤解されたアドルフ・ヒトラーご当人が、「出自を隠して、完全にヒトラーになりきったコメディアン」として人気を博し、テレビ番組を持つようになり、さらにはその影響力の大きさから諸々の現存政党から勧誘の声がかかるようになる・・・紆余曲折はあるモノの、結果的には「あれよあれよという間に」。

 本書の巻頭言には「ヒトラーを笑っている心算が、いつの間にかヒトラーと笑っている恐怖」と言う大意の文かある。実際、この小説の中のヒトラーは「我が闘争」そのまま(多分(*2))の人種差別主義で国家社会主義のまま、まず「ヒトラーのそっくりさんを演じるコメディアン」として有名になる。あくまでも「アドルフ・ヒトラー当人である」という主張も、振る舞いも、「コメディアンの芸」として受け入れられ、同時に「ヒトラーを未だ崇拝する極右政党」からは「ヒトラーをオチョクる不届き者」として痛烈な非難と、ついには暴行まで受ける。
 その暴行事件が、逆に「ナチスドイツ政権を率いた往事のヒトラー」と「21世紀の(実は同一人物である)ヒトラー」を「分離する(*3)」役に立ち、「21世紀によみがえったヒトラー(当人)」の政治的価値を高めてしまう。為に既存政党もこの「帰ってきたヒトラー」を、無視や批判するどころか、利用しようと動き出す・・・なーんだか、SEALDSなどと称する胡散臭い「若者集団」にしっぽ振って迎合してみせる日本の既存政党(*4)を見るようだな。

 左様な「どこかで見たような情景」が、「帰ってきた(本物の)ヒトラー」を強烈な背景として描き出されるからこそ、本小説はヒットしたのだろう。映画化までされてしまい、映画も売れているそうだから、かなりの「ヒット」だ。

 ヒトラー自身のモノローグでつづられるこの小説は、当然ながら「ヒトラーからの視点」で描かれる。「EUの盟主としての”統一”ドイツの現状」も、今2016年ほどにまだ非道くなってはいないが「EUへの移民受け入れ問題の惨状」も。そこでヒトラーは、人種差別的立場を相応に(*5)隠蔽して、人気を博していき、テレビの出演者から、レギュラー番組司会者を経て、いよいよ政界に乗り出そうって処でこの小説は終わる。

 後書きによると、「ナチ党の愚行、蛮行を、脊髄反射的に非難するだけでは、真の非難にならないし、次代、次々代に伝わらない。」と言うのが、本書執筆の動機だそうだ。確かに「ナチ=絶対悪」と規定し、絶対悪としか規定せず、何故悪かを詳らかにしない、考えない、条件反射的に悪と断じるのみであれば、「ナチの何が悪いのか」は判りようがない/伝わりようがない。そうであれば「ネオナチ」と自ら名乗らない、「形や名前を変えた”ナチ”」には、対抗しようも抵抗しようもなくなる。「絶対悪としか規定しない」のは、「絶対悪とされるレッテルで即断するのみ」の思考停止状態にほかならない。

 それを避けるには「絶対悪としてのナチ」ではなく、「ナチの何が悪いのか」と言う「相対悪としてのナチの”再評価”」が有効である。既に「ナチ=絶対悪」化が相応に進んでいるのならば、なおのこと。それがある意味、ある程度の「新ナチス支持者」の存在を認めることになろうとも。否、それなればこそ、か。

 本書「帰った来たヒトラー」が、21世紀のドイツにヒトラー本人を「蘇らせ」、その顛末を(*6)描出することは、「ヒトラーを笑う/ヒトラーと笑う」のみならず、「相対悪としてのナチの”再評価”」と、なりうる。コメディアンとして、「絶対悪」のレッテルを剥がされた「正真正銘掛け値無しのナチ」アドルフ・ヒトラーご当人を「描く」事によって。

 その「帰ってきたヒトラー(当人)の主張」が。「ある程度の支持を得る」という「恐怖」=「恐るべき(小説上の)現実」と共に。

 本小説を読んで、改めて思い出されたのが、マンガ「最後のレストラン」に登場するお客様の一人としての「アドルフ・ヒトラー」である。(*7)「ドイツ民族の栄光を願う善意の老人」=善人として描かれた同マンガのヒトラーは、それ故に、と言うべきか、殆ど人種差別的言動が無い。あえて挙げるならば、食事の対価としてドイツが当時世界に誇った(*8)精密機械製品=懐中時計を渡す際に「君らには、未来永劫作れないだろう。」と呟いたことくらい。この台詞とて、戦後水晶時計で日本製腕時計が世界を席巻したことや、それ以前に時計の精度を競う”時計のオリンピック”で日本製(セイコー製)機械式時計が圧勝しそうになるとルールを改変して圧勝しない様にした”戦後の史実”を知る者からすれば、ギャグでさえある。

 その”人種差別的態度”も、去り際に「皇室を大事にし給えよ。」とかけた一言で、帳消しに出来そうだ。
 
 あくまでアドルフ・ヒトラーを善人として描ききった「最後のレストラン」に対し、あくまでもナチス党党首=人種差別主義の「悪人」として描き切った小説「帰ってきたヒトラー」。ま、その人種差別主義も、有能なユダヤ系女性秘書に対する評価で「訓練は出自を凌駕する」と述べていることから、ある程度「揺らいでいる/揺るがされている」ようではあるが、放送業界へのデビュー早々に「ユダヤ人はジョークにならない/しない」と釘刺されたのを「真に受けて」いることからも、本小説「帰ってきたヒトラー」上のヒトラーの人種差別主義には疑義の余地がない(*9)。

 してみると、小説「帰ってきたヒトラー」によって描きたかった「ナチスの相対悪(の一つ)」は、やはり、と言うべきか、案の定と言うべきか、「人種差別主義」と言うことになろう。

 他にどんな「ナチスの相対悪」があるかは、「小説を読んでのお楽しみ」としよう。あるいは、安くすまそうと思ったら「ヒトラーが21世紀に蘇ったら、なにをどう主張するか」という思考実験でも良かろう。

 断片的な情報からすると、映画化に当たってはいくらか変更があるようだ。ま、「21世紀にアドルフ・ヒトラーが蘇る」という大筋を外さなければ「相対悪としてのナチスの”再評価”」と言う点にブレ・ズレ・修正はあるまい。映画は宣伝でしか見ていないが、一見の価値はありそうだ。

 絶対善や絶対悪を盲信しているような、バカや間抜けにはお勧めできないが、より柔軟な思考や魂の自由を愛する者には、一読の価値ある小説、と考える

 絶対善や絶対悪を盲信しているような、バカや間抜けには・・・付ける薬はないから、放っておいて自然淘汰を待つとしよう。


<注記>

(*1) この表現も、ヒトラー本人によると噴飯物らしい。そりゃオーストリア・ハンガリー二重帝国も、アルザス・ロレーヌ地方も”大ドイツ”にや含まれるから、東西ドイツを合わせたぐらいじゃ適わないが。 

(*2) なにしろ私(ZERO)は「我が闘争」を読んだことがないので、推測の域を出られない。 

(*3) 確かに「同一視」するのは相応に難しいことではあろうが。 

(*4) 幸いなことに、主として野党だが。 

(*5) 「巧みに」「巧妙に」と言うよりは、むしろ「余りに堂々としているが故に人種差別と悟られず」に 

(*6) 小説の常として作者にとって非常に好都合に。 

(*7) 先行記事「最後のレストラン」 参照  http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/37312432.html

(*8) 今では当時ほどの栄光はないし、「脱原発」なんて愚行がまかり通るようでは、現状の地位とて早晩失うことになるだろう。 

(*9) まあ、マンガ「最後のレストラン」のヒトラーも、「フランス嫌い」はかなり激しかったが。それでもジャンヌ・ダルク相手に、殴りかかったり斬りかかったりはしていないぞ。

 対してジャンヌは、「イギリス人」相手に何処からともなく取り出した大剣振りかざして斬りかかっている。