J.Pホーガン作 「星を継ぐ者」「ガニメデの優しい巨人」「巨人達の星」(以上「ガニメデ三部作」)
応援いただけるならば、クリックを⇒ https://www.blogmura.com/


正月なのであるから、景気の良い話をしたくなるのは人情というモノ。だが、現実の我が国の状況は、決して絶望的ではないものの内憂外患の種は尽きず、なかなか「景気よく」とは行かない。
であるならば、いっそSF世界の話をしようではないか。
であるならば、いっそSF世界の話をしようではないか。
ニュートリノビームに対する物質内の干渉を計測することで、物体の内部を触れることなく顕微鏡級精度で精密測定し、3次元画像として再現出来る「トライマグニスコープ」の英国人発明者・ハント博士(主人公)が、半ば強制的にトライマグニスコープ試作機(*1)共々連れてこられたのは、米国はヒューストン。そこでハント博士等は、死後5万年と推定されるミイラ化した遺体の調査を依頼される。
「月人(ルナリアン)チャーリー」と名付けられたその遺体が特徴的なのは、21世紀の今日(*2)でも技術的に困難なほど高度な宇宙服と装備を着用して月面で発見されたことであり、なおかつ、副主人公・ダンチェッカー先生が縷々説明される通り、「縦から見ようと横から見ようと我々と同じ、ホモサピエンス=現世人類である」と言うことであった・・・
「小説の漫画化と、漫画の小説化、どちらが難しいか」と言うのは、以前「剣客商売」(池波正太郎原作・大島やすいち漫画)を紹介したときhttp://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/38635355.htmlに掲げた命題だ。私(ZERO)の結論は、「小説の漫画化の方が、難しい」で、理由は「小説=テキストベースならば省略できる細部まで、漫画は絵として表現しないとならないから。」その結論は今以て変わっていない/変えていない。
「剣客商売」の紹介では、その大島やすいち作の漫画のおもしろさと、その筋立ては原作・池波正太郎による所大であると、さいとうたかおプロ漫画化の「剣客商売」と比較して確信している、としながらも「実は池波正太郎作の原作は、一つも読んでいない」と告白した。池波正太郎先生にはちょいと済まないと思いつつ、その状況は今も変わりがない。
だが、池波正太郎先生にはますます済まないことにJ.Pホーガンの「星を継ぐ者」に始まる「ガニメデ三部作」は、「連載されていたマンガを読んで、連載の途中で小説を読み始め、連載終了前に三部作全部を読んでしまった上に、すっかりJ.Pホーガンのファンになってしまった。」事を、私(ZERO)は告白/懺悔しなければならない。以来、「ホーガンの作品は、文庫で発見したら必ず購入する」をドクトリンに、「見敵必殺」を信条としている。つまりは、これまたますます池波正太郎先生にはすまないのだが、「ホーガンのSF小説の方が、池波正太郎先生の時代小説よりも私(ZERO)は気に入っている」と言うことである。


一連の作品の内最初に作品にして「ホーガン初のSF長編」であるそうな「星を継ぐ者」は、上記のかなり印象的な冒頭に登場する「月人(ルナリアン)」チャーリーの謎を解くある種ミステリでもある。確かに、ラストシーンで副主人公・ダンチェッカー先生が鮮やかに解明してみせる「謎」は、何度も引用している決め台詞共々忘じ難いものである。
「ならば、行って我々の正当なる遺産を要求しようではないか。
我々の伝統に敗北の概念はない。今日は銀河を。明日は銀河系外星雲を。
我々を止められるような力など、この宇宙には存在しないのだ。」
我々の伝統に敗北の概念はない。今日は銀河を。明日は銀河系外星雲を。
我々を止められるような力など、この宇宙には存在しないのだ。」
この「星を継ぐもの」は、EQMMこと「エラリー・クイーン・ミステリ・マガジン」に書評が掲載されたと言うから、ミステリとして一定水準にあると言うことだろう。それはそれで結構なんだが、ミステリであるならば「ネタばらし/犯人ばらし/トリックばらし」は御法度である。それは、そのミステリを読む楽しさ・おもしろさを「これからの読者」=「まだ当該作品を読んでいない人」から奪うことになる。だがそうなると、「星を継ぐもの」の謎解きが、以降の作品への入り口にもなっているJ.Pホーガンの一連の作品を、そのストーリーを追って紹介することはほぼ不可能になってしまう・・・少なくとも「ストーリーの面白さ」を伝えることは「謎解きの面白さ」を半減してしまう可能性がある。J.Pホーガンのファンにして、この一連の作品を多くの読者に読んでいただきたい私(ZERO)としては、この点では相当に、困ってしまう。
そこで「本作品の魅力」と言う視点で考えるならば、「星を継ぐもの」後記にもある通りホーガンSF作品の特徴の一つである、「科学技術対する、開けっぴろげとも無邪気とも言えるほどの信頼・信用」があげられよう。「フランケンシュタイン・コンプレックス(*3)」も笑って吹き飛ばすような、正に、「星を継ぐもの」を皮切りとするガニメデ三部作(+「内なる宇宙」)に描かれる「人類の一大特徴」。
否、当該シリーズに「人類の一大特徴」として「科学技術対する、開けっぴろげとも無邪気とも言えるほどの信頼・信用」が描かれるからこそ、「ホーガンSF作品の特徴(の一つ)」なのであり、それを「魅力として紹介」してしまう私(ZERO)自身が左様な「科学技術対する信頼・信用」を有する、少なくとも「相通じるものを感じている」と言うことである。ま、それは、幣ブログの「私の原発推進論http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/35630668.html」あたりを読めば、明らかなところであろうが。
逆に行えば、「科学技術対する信頼・信用」を有しない、さらには「科学技術に対する不信」を有する人(*4)にとっては、当該作品は「魅力がない/少ない」可能性があろう。
ま、以前にもどこかに書いたことだが、芸術の価値を決定するのは、受け手=読者・徴収・視聴者だけであり、その意味では書評とか映画評といったモノは恣意的な評論にしかなりようがないのだが。
<注記>
(*1) 及び、開発にも携わった技術者(*2) 小説上の舞台は、2020年代。今よりも、少し未来だ。(*3) ってのは、SF黎明期からの巨匠・アイザック・アシモフの造語だった、と思うが。「自らの科学力が生み出した”怪物”に恐れおののく心理的状態」を言う。(*4) 例えば、「脱原発論者」なんてのは、そうだろう。それとも、違うのかな。「違う」としたら、是非知りたいところだ。