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 「ナイチンゲール」と、電子辞書で引くと、

「ナイチンゲール[nightingale][名]
ヨーロッパに広く分布するヒタキ科の小鳥。背面は灰褐色、腹部は白い。夜間も高く美しい声で鳴く。サヨナキドリ。ヨナキウグイス。」

と出てくるが、普通思い出すのは鳥類のナイチンゲールではなく、「白衣の天使(*1)」こと近代看護婦制度の「母」、フローレンス・ナイチンゲール女史だろう。今回紹介する藤田和日朗 作「ゴースト アンド レディー」の「レディー」こと(*2)本作品のヒロインこそ、そのフローレンス・ナイチンゲール女史である。

 ならば、タイトルとなっている相方の「ゴースト」はと言うと、本作品の主人公・語り部であり、イギリスはドルリー・レーン劇場に出没するという幽霊「灰色の服の男」。通称「グレイマン」で自称が「グレイ」。その名の通り、灰色の長衣と三角帽子をトレードマークに、長剣二本とフリントロック式らしい単発銃を持つ元「決闘士=決闘代理人」。ドルリーレーン劇場にとりついて、ただ観劇に暇を潰し、劇が気に入ったときだけ姿を現す(らしい(*3))グレイの元へ、「自分をとり殺してくれ」と必死の形相で「レディ」ナイチンゲール女史が懇願に来るところから話は始まる。

 ま、「自分はクリスチャンで、自殺は出来ないから、とり殺して欲しい」と言うのも、私(ZERO)のような異教徒からすると実に妙な理屈(*4)なのであるが、何にせよ当時「看護婦は大酒飲みの淫売」と思われていた時代に志した「看護の道」を、家族の猛反対で閉ざされ、絶望していたナイチンゲールは自らの死を望んで幽霊「灰色の服の男」グレイに接触してきた訳だ。グレイの方はこれを幸い「悲劇のヒロインを絶望のどん底でとり殺す」という「悲劇の一幕」を思いつき、これを実現しようとフロー(*5)が絶望の淵に沈む」まで「取り殺すのを待った」のが、「運の尽き」と言うか、「運命の悪戯」と言うか、「運命的出会い」と言うか・・・兎に角、フローレンス・ナイチンゲール一世一代の偉業「近代看護産業の確立」に、ただ演劇の当たり外れを占う指標でしかなかった一介の幽霊(*6)が、立ち会う・・・どころか、これ以上には無さそうなぐらい頼もしい味方として、参戦することになる。

 「よって、名誉の章典に従い、諸君に私を殺害する機会を与えよう。」グレイ
 
 「神の声」に従い目指した看護への道を両親&姉の猛反対であきらめ、絶望し、そのためにグレイに頼んで「自らの死」を望んだ筈のヒロイン・ナイチンゲールが、その死を目前にして猛然と反撃に転じ、両親相手に看護の道の意義を説くーいや啖呵を切るという表現が正しいかーシーンが上巻の白眉だろう。その「啖呵」に、「台詞回し」に、「意気」に感じたグレイが、「うっかり」ナイチンゲールを「助けて」(*7)しまったために、ナイチンゲール女史は家族の反対押し切って(*8)「看護の道」へと突き進み、その後数多の苦難苦労試練はあるものの「絶望」とは殆ど無縁の強靱さを見せる。

 それ即ち、グレイにしてみれば、「悲劇のヒロインを絶望のどん底でとり殺す」という「悲劇の一幕」から縁遠くなる/縁遠くなった(*9)と言うことである。何度かそのことをボヤいては見せるが、とてもイヤがっているようには見えない。むしろ、楽しんでいるようだ。

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 「フローレンス・ナイチンゲールが・・・弱い・・・だってぇ?」グレイ

 一方のナイチンゲール女史、「幽霊 が見える」霊感体質と言うことになるし、「神の声を聞いて看護の道を目指す」と言うから相当な変わり者でもある。だが、そこは物語のヒロインだ。相応に魅力的でもあれば、多分史実以上に美人(*10)でもある。
 
 訂正しよう。物語のヒロインであるか否かに関わらず、本作品のフローレンス・ナイチンゲール女史は、かわいく、魅力的である。そのかわいさ・魅力こそが、この紹介文を書いた最大の動機である。特に、最後近く、死の床に伏しているナイチンゲール女史が、50年ぶりのグレイとの再会に、50年前の艶姿(*11)になって飛び起きるシーンなんかは「涙が出そうになるくらい、かわいい(*12)」。

 むろん、そこは史実に名高いナイチンゲール女史だ。その魅力は「かわいさ」だけではあり得ない。上記の通りグレイも認める「強さ」も魅力である。予め調達してあった資材が到着し、直ちに「トルコ式料理鍋の配置」を命じるシーンなどに、その「強さ」の魅力が現れていよう。これがいわゆる「ギャップ萌え」と言う奴かも知れない。

 「たとえそれが「偽善」でも、貫き通さねばならない「偽善」がある。
 「偽善」でしか成し遂げられない「善」があるのです。」フローレンス・ナイチンゲール

 確かに、理想主義と偽善は紙一重だろうし、貫く理想がついに現実となることはあり得る。ナイチンゲール女史がその理想を貫き、大凡一個人としてなしうる最大限と思えるほどに「理想を現実化した」事も認めよう。

 だが、上記引用した「ナイチンゲール女史の理想主義」を一般論化することは、私(ZERO)には出来ない。特に、国家の危急存亡がかかるような安全保障・国防問題について、個人はともかく一国家国民が左様な「理想主義」を貫くことを、私(ZERO)は否定する。(*13)

 とは言え、非暴力不服従を以て「ある範囲で紛争を解決」して見せたマハトマ・ガンジー(*14)に抱かざるを得ないような敬意(*15)を、上掲ナイチンゲール女史の台詞に抱かないわけには行かない。女史もまた、その「理想主義」を貫き、「偽善によって善を成した」と認めるが故に。なおかつ、「敬意を抱かせる」のもまた「ナイチンゲール女史の魅力」であり、本作品「ゴースト アンド レディー」の魅力であろう。

 更に言うならば、本作品に描かれる半生に於いて「怒った顔」と「耐える顔」ばかり見せているナイチンゲール女史が、ほんの時たまグレイに対してみせる、妖艶ともいえるような「女としての表情」も魅力の一つである。分けても「今は忙しいが、暇になったら必ず絶望するので、そのときは必ず殺して欲しい。」とグレイに「お願いする」シーンの表情は、前後のコミカルな表情とのコントラストも鮮やかで、台詞回しの(*16)絶妙さ共々、漫画家・藤田和日朗の真骨頂と言うべきだろう[勝手に断定・断言]。

 さて、登場人物の魅力ばかりでストーリーに全然触れていないが・・・冒頭に登場する「かち合い弾」即ち「弾丸と弾丸が正面衝突して癒着した弾」がキーを握る、クリミア戦争を主たる背景とした「ナイチンゲール女史の半生記」とだけ、記しておこう。後は「読んでのお楽しみ」としよう。マンガとしては厚めだが、上下二巻でしかないのだから、費用的にも時間的にも大したことはない。「ものは試し」を実施するに、ハードルは高くないだろう。

 さは、さりながら・・・このマンガのストーリーからすると、グレイこと「灰色の服の男」は、未だドルリーレーン劇場の観客席を彷徨している、筈なのだが・・・どうなのだろうねぇ。

 まあ、私(ZERO)は幽霊もUFOも見たこと無い、おそらくは「霊感ゼロ」体質であるから、イギリスはドルリーレーン劇場へ行ったところでグレイには会えそうにないが・・・いや、まあ、会えるものならば、会ってみたいと思うぐらい、魅力的という事だ。

<注記>

(*1) というのは後世のイメージで、看護婦が白衣を着用する様になるのは、だいぶ後のようだが。それどころか当時の看護婦は、「天使」とはほど遠い「売春婦の同類」扱いだったらしい。
 尤も、売春婦だって見よう見る目によっては「天使」たりうると思うが。 

(*2) 宇宙海賊コブラの相棒であるアーマロイドではなく 

(*3) 幽霊「灰色の服を着た男」が出現した芝居は、必ずヒットするというジンクスがあるそうだ。「縁起の良い幽霊」ってのも、妙なものだが。 

(*4) 人の生死を決めるのは神なので、自殺は神の領域を侵す、って理屈らしいんだが、ならば「他者に殺してもらう」、それも依頼や懇願や金銭・取引で「殺してもらう」ってのが「神の領域を侵さない」と言うのは理解し難い。 

(*5) フローレンス・ナイチンゲールなので自称・愛称が「フロー」。「流れ」かよ!って、突っ込みたくなる。 

(*6) って言ったら、グレイにとり殺されそうだが。 

(*7) なにをどうやって助けたかは、本編読んでのお楽しみとしよう。 

(*8) と言うか、シーツの件を考えると、逆に家族を巻き込んで 

(*9) むしろ、これこそ「絶望的になった」と表するべきだろう。 

(*10) 記憶にある肖像写真では、かなりきつい目つきで、意志の強さこそ感じさせるものの、お世辞にも美人とは言い難い。 

(*11) 肉体ではなく、魂だか霊魂だかの姿であろうが。 

(*12) 一般的な言い回しではない。むしろ特異な表現であることは認める。だが、私(ZERO)にとっては「紛れもない事実」だ。 

(*13) 何を言いたいのかというと「憲法9条守れ」だの「憲法9条が戦後日本の平和を守った」等という「偽善」は、「終局的に善を成すだろう」と「期待すら出来ない」と言うこと。その前に、我が国がなくなってしまうだろう。少なくともそのリスクが十分にある。

(*14) ガンジーの非暴力主義が、私(ZERO)に対する強力な「アンチテーゼ」であることは、殆ど自明であろう。 

(*15) 何度か書いていると思うが、ガンジーが非暴力主義を実践し、それによって(少なくともある範囲で)紛争を解決して見せたことは尊敬に値する。が、その非暴力主義は一般論化できない所か、「ガンジー以外には殆ど実効・実績がない」為に、私(ZERO)自身とか我が国とかに適用することは絶対に出来ない。
 「豹がその斑を全て洗い流し、ジャージー種の牛と同じ仕事をもらう」その日まで。あるいは、「豚が空を飛ぶ時代」が来るまでは。 

(*16) 後書きに、この台詞の下敷きとなったナイチンゲール女史自身の言葉がある。