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 随分昔に読んで、もうタイトルも忘れてしまったSFの短編。「これは、この物語の終わりの部分。で始まり、次の章はこれは、この物語の真ん中の部分。で始まり、大方予想できるだろうが最終章をこれは、この物語の最初の部分。」ではじめ、最終章で大どんでん返しがあると言う、ある種の「ミステリ」。その「トリック」の鮮やかさもさることながら、時系列を逆転させて美事にストーリー展開してしまう「話術」ならぬ「小説術(*2)」に、感服したのを今でも覚えている。

 で、そんな巧みな「書き方」が、私(ZERO)に出来るとは思えないが、試してみても罰は当たるまい。

 Just Try!-映画「夕陽のガンマン」-

<注釈>

(*1) 「半島的言い訳」ってタイトルは、以前に使っていたな http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/39438969.html 

(*2) まあ、「語り口」とでも言えば、どちらの意味にもなりそうだが。 

これは、この物語の終わりの部分。


①【朝鮮日報コラム】【コラム】産経前支局長の手記から思い浮かんだ言葉

【1】 産経新聞の加藤達也前ソウル支局長(48)が、今月7日付の同紙に掲載した手記は、ファクト(事実)を命同然に守るよう教えられてきた記者の立場から見れば、とても当惑せざるを得ない。加藤氏は旅客船「セウォル号」沈没事故当日の朴槿恵(パク・クンヘ)大統領の動静に関する記事に書いたうわさを「虚偽」とした韓国の裁判所の判断について「異を唱えるつもりはない」と主張した。

【2】 その代わり、自らが朴大統領に関するうわさを取り上げたことで、当時明らかではなかった社会的関心事がその後、検察の捜査で明確になったと評した。自分が疑惑に言及したおかげで、朴大統領が汚名をそそいだというわけだ。一方、自分の記事を虚偽だとした裁判所の指摘については「先月30日の公判で、朴大統領をめぐる当時のうわさを事実上否定した裁判長の見解は、これまでの審理や検察の捜査に則すれば妥当なものだろう」と、人ごとのように表現した。これはさらに当惑せざるを得ない。記者が根拠のない疑惑に言及することで、検察・警察に捜査を求める存在だというふうに聞こえるからだ。

【3】 米国のバラク・オバマ大統領も、このような無責任な疑惑に振り回されたことがある。再選を目指して奔走していた2011年、かつて「不動産王」として知られたドナルド・トランプ氏は「オバマ氏は米国生まれではないため、大統領選挙の被選挙権がない」と主張し論議を呼んだが、その際に「私が疑惑を取り上げたのだから、釈明する責任はオバマ氏にある」という論理を繰り広げた。オバマ大統領は無視しようとしたが、国籍をめぐる疑惑が予想以上に広がったため、苦心の末、ハワイで生まれたという証明書を公開した。その上で「このようなばかげた悪ふざけにこれ以上振り回されたくない」と述べた。

【4】 西江大学社会学科のチョン・サンジン教授は『陰謀論の時代』という著書で、潔白を証明する責任を疑惑の当事者に負わせることについて「不当な毒性」があると指摘した。この毒にやられた人は、幻滅感に耐えながら無意味な争いを繰り広げざるを得ないというわけだ。米紙ウォール・ストリート・ジャーナルのコラムニスト、カール・ローブ氏が「あなたが説明しなければならないのなら、あなたはすでに敗北したことになる」と述べたことも、このようなことが背景にある。チョン教授は陰謀論者の主な特徴として「二元論的な考え」も挙げた。疑惑を持ち出す人は、自分を「善」と見なし、疑惑の対象として名指しする人を「悪」と決め付けるというわけだ。

【5】 19世紀の英国の小説家ジョージ・エリオットは、長編小説『フロス湖畔の水車小屋』で、自らを優位に立たせ、他者を堕落した存在と見なすことにより、結果的に思うまま疑惑に言及する自分に免罪符を与えるという人間性の誤った属性を批判した。この作品で、富豪の家に育った青年スティーブンは、貧しいながらも気品のある女性メギに魅力を感じた。スティーブンはメギと舟遊びに興じ、夜通し誘惑したが、メギはすでにいとこと婚約したスティーブンの要求を拒み、翌日帰宅した。ところが村人たちは、メギが悪事を働いたと決め付けた。メギに対し後ろ指をさし、道徳的な優越感に浸ろうとする村人たちの行動は「犬の目には糞だけ見える」ということわざを連想させる。

【6】 根拠なく疑いの目を向け、好き勝手に疑惑を持ち出す行動は、いつまでも酔いが覚めない安い酒にも似ている。加藤氏が朴大統領の疑惑を持ち出したことを内心歓迎し、敵と味方に二分する韓国社会の悪習に利用しようとした人たちも、この安い酒を飲まなかったとは言い切れない。金泰勲(キム・テフン)デジタルニュース本部次長

これは、この物語の真ん中の部分。


②【本紙前ソウル支局長公判】「産経問題」は日韓の大きな外交問題に 価値観共有できぬ国、日本が失望 加藤達也前支局長手記  
2015年4月7日 10時34分産経新聞

【1】 3月30日の公判で、朴槿恵大統領をめぐる当時の噂を事実上否定した李東根(イ・ドングン)裁判長の見解は、これまでの審理や検察の捜査に則せば妥当なものだろう。

【2】 私はその見解に異を唱えるつもりはない。

【3】 在宅起訴直前の昨年10月2日に行われた3回目の事情聴取で、取り調べを担当した高泌亨(コ・ピルヒョン)検事はこう問うてきた。

【4】 「当検事室が確認したところ、セウォル号事故発生当日、問題となった7時間に朴槿恵大統領は青瓦台内で事故に関連して書面と有線(電話)で報告を受け、指示をして、その職務を遂行していたものと確認されているが、どうですか」

【5】 私は、次のように答えた。

【6】 「コラムで噂を取り上げた当時には明らかでなかった社会的関心事がその後、検察の捜査で明確になった。これは社会的に有意義な、いいことだと思います」

7】 なぜなら、コラムは朴大統領の噂を書こうとしたのではなく、こうした噂が流れていること自体が政権に対する韓国社会の評価を表しているということを日本の読者に伝えたいと書いたものだからだ。

【8】 裁判長は、私がコラムを書いた当時には表に出ていなかった元側近、鄭(チョン)ユンフェ氏の携帯電話の通信記録や大統領府警護室の記録などを基に合理的な判断にのっとり一定の結論を引き出した。

【9】 私のコラムをめぐる裁判がきっかけとなって、結果的に韓国国民も疑問に思ってきた「噂」の内容が裁判所によって否定された。

× × ×

【10】 私は昨年10月8日にソウル中央地検によって在宅起訴された。同8月の「出国禁止」からは7日でちょうど8カ月となる。この間、いろいろなことがあった。

【11】 在宅起訴であるため、裁判への出廷義務がある以外は日常生活において制約を受けることはない。韓国国内ならば自由に行動できる。

【12】 ただ、今年3月5日にマーク・リッパート駐韓米国大使が刃物で襲撃される事件が発生した。昨年11月27日の初公判の際には、威勢を示したい勢力が法廷内で騒ぎを起こし、裁判所敷地内で私が乗った車が強制的に停止させられ脅迫・暴力行為を受けるという問題もあった。

【13】 こうしたことから、不測の事態を避けるため、不特定多数に接するような取材は控えざるを得ない日々が続いている。

【14】 昨年10月1日に東京本社社会部編集委員への異動を発令され、警察庁と拉致問題の担当となった。この間、イスラム過激派による犯行で複数の日本人が犠牲となった。日本にいたら、担当していたであろうこうした事象が伝えられるたびに、胃が締め付けられるような焦燥感を覚える。妻が3カ月に2度ほどのペースで韓国を訪れ、家族や親戚の様子を伝えてくれることで、前向きな気持ちを保っている。

【15】 現在、「産経問題」は日韓間の大きな外交問題となっている。これは私としても本意ではなく、残念なことだ。

【16】 外国の特派員を、最高権力者をめぐる社会・政治状況を伝えたコラムが気に入らないからといって刑事裁判にかけ、長期間出国を禁ずるという措置に、日本政府はもとより日本に住む多くの人々が驚愕(きょうがく)していると聞いた。

【17】 これまで日本国民の多くが共通の価値観を持つ国だと認識していた韓国が、実は「自由・民主主義」や「言論の自由」といった、現在の国際社会が重視する価値観とはかけ離れた行為をしていることへの失望がどれほどだったかを示しているように思う。

【18】 日本国内からだけではなく、韓国の知人、友人の多くも私の置かれている状況を心配し、韓国政府の措置に疑問を呈する言葉をかけてくれていることには、感謝とともに、心強く思っている。(産経新聞前ソウル支局長 加藤達也)

これは、この物語の最初の部分。

 産経新聞前ソウル支局長を韓国検察が国内軟禁している件の原因となった産経新聞前ソウル支局長のコラムに於いて、「セウォル号沈没事故発生当日、朴槿恵大統領の”空白の7時間”と言う噂」を引用したのは、他ならぬ朝鮮日報の記事だった。

 ああ、知っている人は知って居ようから、「オチになって居ない」可能性は相当に高いな。だが、上掲②産経新聞前ソウル支局長コラムを批難する上掲①朝鮮日報コラム、「パラグラフの半分を、他からの引用文で埋めている」且つ「その引用の大半が牽強付会のコジツケである」と言う事実は、それだけでも私(ZERO)にとっては失笑モノである。

 引用に頼らないと、批難も出来ないのかね。
 
 そもそも、「韓国検察が虚偽と”実証”した噂を、記事にして報じた」のは、朝鮮日報であろうが。その「後ろめたさ」が、上掲②「半分引用コラム」なのかも知れないが、物書きとして、文章書くことを飯のタネにする記者として、恥ずかしくないのかね。

 ああ、半島では「恥ずかしくない」ンだろうな。「皆」やっているから。