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 当ブログの特徴の一つに「コメントの少なさ」を挙げないわけには行かないだろう。

 ブログによってはコメントを制限したり、管理者の承認が必要だったり、極端には片端から削除したりもするようだが、当ブログは「明らかなエロコメントでない限り、削除しない(*1)」を原則としており、為に「記事との関連不明」だったり、意味不明だったり、「こいつ、キチガイだな」と思うようなコメントも、そのまま残している。それでも「コメントが少ない」のは、まあ「我が身の不徳の致すところ」なのだろう。(多分
 
 そんな「コメントの少なさ」を(密かに?)嘆く当ブログであるから当ブログ記事や私(ZERO)自身に対する反対論は無論のこと、非難批判だろうが、誹謗中傷だろうが、当ブログにつくコメントは、大歓迎なのである。

 

<注釈>

(*1) Jos某はその「偉大なる例外」という訳だ。ああ、さんざん繰り返す通り、「当ブログ記事となっている公開質問状の全質問に回答するならば、この処置=「警告なしにコメント削除の刑」は、解除される」。しばらくやって来ないが、ついに「永遠に生きる」羽目に陥ったのかな。 
 
nogatera氏コメント

【1】 日本語には時制がない。過去・現在・未来の世界を分けて考えることができない。

【2】 日本人には現実があって、非現実がない。非現実の内容は、現実の中の嘘となっている。

【3】 矛盾を交えて非現実の世界を話せば、空想・妄想の語り部となる。これらは雑念で価値はない。

【4】 あるべき姿 (非現実)の世界を構成できて、それを語れば哲学博士 (Doctor of Philosophy:Ph. D.)となる。

【5】 非現実の内容を、現実の世界で実現できれば、それは人間固有の創造力を発揮したことになる。

【6】 非現実の世界で過不足のない考え方をするには、SoA (State of Affairs:事柄の内容) を固定して、ただ時制だけを過去・現在・未来と変えればよい。これは大人のための英語の勉強である。

【7】 時制の変換は、英語ならできる。日本語ならできない。だから、日本人は無哲学・能天気にとどまる。

2014/9/8(月) 午後 11:33 [ nogatera ]
 
ZERO返コメ

【Z1】 nogatera様、コメントありがとう御座います。誠に興味深いコメント。種々お尋ねしたき義はありますが、改めて記事にしたてることとして、此処では一つだけお尋ねしましょう。

【Z2】 当該記事にかかるコメントをいただいたのは、「日本語には欠陥があるのだから、日本人は自信を持つな」というご主旨と拝察します。

【Z3】 日本語もあれこれ特徴のある言語ですから、日本語による利害得失はありましょう。が、その高等教育まで日本語化された環境において我が日本人は、世界初の高速鉄道・新幹線を実用化し、「実現した安全神話」にまで至らせ、黒船に腰を抜かしてからわずか70年で戦艦大和を建造しています。

【Z4】 つまり、日本人と日本の歴史が、ご指摘のような「日本語の欠陥」を、「少なくとも致命的では無いと実証している」、と考えますが、如何でしょうか。

2014/9/9(火) 午後 11:31 [ ZERO ]
 

 

文法上の時制がそんなに重大かね?

 
 さて、如何だろうか。
 
 上掲私のコメントに続いて、りっくどむ様が「日本語は助詞・語尾で時制を使い分けられる」と、正しく指摘されている。確かに日本語は、動詞に過去形があり、Have+過去分詞形で現在完了(*1)。BE動詞+~ingで現在進行形と明示される英語のような「文法としての時制」は日本語にはないが、「~する」で現在形、「~した」で過去形、「~している」で現在進行形を「訳し分ける」ことが出来る。

 現在完了形や過去完了形はちょっと難しいが、「~してしまった」「~し終わっている」などとすれば訳せるのだから、「文法としての時制は日本語にはないが、助詞・語尾による概念としての時制は日本語にもあるという「りっくどむ」様の指摘は全く正しい。
 
 「概念としての時制は日本語にもある」以上、「日本語には時制がない」ことに(のみ)立脚する上掲nogatera様の主張は砂上の楼閣の如く崩れ去るのであるが、ここでは「仮に日本語に(概念としても)時制がなかったら」という仮想の下、或いは概念としても時制がない(*2)言語」では何が起こるのだろう。nogateraさんの主張では、上掲【2】~【6】まで、「現実と非現実」さらには「哲学」の話になっている。何でも、「時制は非現実世界を過不足なく論る道具【6】」、「非現実(あるべき姿)世界を構築できれば哲学博士(*3)」非現実を現実化できれば創造力の発揮で、先述の通り「日本語には時制がない」ものだから、日本人には現実があって、非現実がない。【2】」と言う凄まじい主張になっている。nogateraの主張に従えば、「(時制を持たない言語の)日本人は無哲学・能天気にとどまる。」ばかりか新しいもの(それは、過去には現実に無かったものだ)を創り出す創造力もない」ことになる。こりゃ「無哲学・脳天気」よりも遙かにゆゆしき問題と、理系である私(ZERO)には思われる。が・・・
 
 そんなに「時制」が偉いかね?哲学や創造力の死命を制するほどに。
 
 想像するに、nogateraさんは日本語を母国語とする方ではあるまい。コメントは日本語で書かれているが、「日本語文法としての時制」に捕らわれて「日本語の概念としての時制」を「知らない」なんて事は、たとえ文盲でもあり得ない。「~した」「~する」「~している」の違いが判らないなんてのは、日本語を母国語とする限り、小学校以前のレベルでは無かろうか(*4)。
 
 ついで、nogateraさんは「文法上の時制」を大変高く評価していることから、nogateraさんの母国語には時制があり、それを大変誇らしく思っているのではないかと想像できる英語を引き合いにしているから、英語かも知れないし、「仏語には時制が12もある」そうだから仏語かも知れない。同時に母国語・母国の哲学や創造力にも相当な自信がおありなのだろう。お国自慢は人間の原初的感情の一つだ。
 
 或いは逆に・・・nogateraさんの母国語には「文法上の時制」が無く(*5)、これに大変なコンプレックスを抱いている、とも想像できる。この場合、nogateraさんの母国語・母国の哲学や創造力にも相応のコンプレックスを抱かざるを得ないだろう(*6)。
 
 無論、nogateraさんの母国語が何語であるか、なんてのは、些事だ。問題は「時制」であり、「時制の重大性」であろう。
 
 私(ZERO)は、文法上にせよ概念上にせよ「時制」がそんなに重大とは、到底思えない。現在・過去・未来と時制を変えるだけでは「非現実の世界で過不足のない考え方をする」のには、全く不足だとしか思えない。それはいわば、「時間軸上にとった3点のデータを計測した」と言うだけだ。
 
 試してみようか。
 
 「私(ZERO)は、このブログ記事を書く。」
 
 「私(ZERO)は、このブログ記事を書いた。」
 
 「私(ZERO)は、このブログ記事を書くだろう。」
 
何か、「過不足無く考えられた」か?
 
 「日本語には時制が無い」ならば、時制のある英語ではどうだろう。
 
I(ZERO)write this article.
 
I(ZERO)wrote this article.
 
I(ZERO)will write this article.
 
Any change Boys?「大人の英語勉強法」だそうだが。
 
 「時間軸上に異なる点が取れる/混同しない」と言う点では「時制」は重要であろう。
 
 だが、それだけで「過不足無く考えられる」とは傲岸不遜と言うもの。それでは「時制が12ある仏語文法」を、どう説明するのだ。

 「言語によって文法上の時制の数に相違がある」と言う事実から、「時制のよって過不足無く考える」為には「最多の時制を持つ言語で考えなければならない」となる筈だが、如何だろうか。

 

<注釈>

(*1) このhaveが、その過去形 hadになると、「過去完了」 
 
(*2) りっくどむさんのコメントによれば、中国語がこれに当たるそうだ。私の中国語知識は、中高生時代の漢文ぐらいでしかないので、「中国語に時制がない」というのが本当か否か判らない。が、「中高生時代の漢文」レベルの知識からは、「そう言えば、動詞が漢字1文字では、時制の表しようが無さそうだな」とは思える。 
 
(*3) 何故か哲学「博士」で、わざわざ英訳と略語までつけている。「哲学者」ではなく、「哲学博士」なのは、あくまでもPhDのD=「博士」という「肩書き」が重要なのだろう。
 ところが、哲学Philosophyばかりか物理学PhysicsもPhで始まるから、「PhD」の肩書きを持つ方の相当部分(ひょっとして大半?)は「物理学博士」だ。 
 
(*4) 「文法上の時制が無い」事に拘泥すれば・・・そうなるの、かなぁ。 
 
(*5) ひょっとすると、「概念上の時制」も。 
 
(*6) そうしないと、上掲コメントの論理が破綻してしまう。