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 側聞するところによると、現代の歴史学という学問は、そのほかの学問と同様に分業化が進んでおり、たとえば江戸時代の研究者は江戸時代だけを研究し、それ以前の戦国時代だとか、それ以降の明治時代と関連づけて研究することが、「ない」もしくは「少ない」のだそうだ。理系の学問でも「博物学」のような学術分野横断的な学問は廃れているし、専門的に一つのことを深く研究しようとすると、専業化・分業化はある程度必然でもあろう。
 
 左様、歴史学者が、研究する対象としての学問ならば、な。
  
 当たり前だがこの世の大半は専門家・学者ではない。歴史学者なんてのはほんの一握りであり、残りの「この世の大半」の非専門家・非歴史学者にとっての歴史は、現代歴史学のごとく専門化・細分化「されなければならない」訳ではない。そこは「素人の浅はかさ」とも「素人故の自由」とも言い得るが、「広く浅く歴史を概観する」通史というとらえ方・考え方が、少なくとも「許容」されよう。たとえば、「古代戦術に於ける騎兵と歩兵の優劣」なんてのは、細分化・専門化し過ぎた「学問としての歴史学」からは、出て来にくい発想だろう。
 
 そんな「通史という、”素人考え”の価値」を再認識したのが、今回取り上げる  みなもと太郎作「風雲児たち」である。
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 まずは大作だ。ワイド版コミックで、第1シリーズが全20巻。第2シリーズ「幕末編」がすでに24巻を数えて、未だ連載継続中。それも月刊誌掲載だから、連載開始は1979年。連載期間としては、あしかけ35年と言うことになる(途中、中断あり)。多分世界記録である「ゴルゴ13」やら、これに準じる「こちら亀有公園前派出所」やら、長期連載されるマンガが日本にはあまたあるが、「風雲児たち」の連載期間も、特筆大書されてよかろう。
 
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 「幕末維新の激動する時代に生きた風雲児たちを描く」ということで(多分)描き始められたマンガだが、その冒頭が(ある意味きわめて正当なことに)関ヶ原の合戦である。ここから坂本竜馬が剣術修行に江戸へ旅立つまでが「風雲児たち  第1シリーズ」全20巻なのだから、勢い「風雲児たち」は「江戸時代通史」とならざるを得ない。
 「幕末維新を描くのに、なぜ関ヶ原合戦まで(ざっと400年ほども)遡らねばならないか」と言うと、(恐らくは)以下のロジックによる。急いで追記するが「文言としては「風雲児たち」に書かれてはいない(*1)。
 
(1) 幕末・維新の激動は、江戸幕府が倒れ、新政日本政府が樹立するまでの動乱である。
 
(2) 新政日本政府の中心は、薩摩、長州、土佐であり、薩摩・長州・土佐が倒幕の中心である
 
(3) 薩摩・長州・土佐が倒幕の中心となったのは、「西国の雄藩」として、経済力・軍事力・政治力・技術力・人材に優れていたためである。
 
(4) 薩摩・長州・土佐が「西国の雄藩」として、経済力・軍事力・政治力・技術力を蓄え、人材を育てたのは、江戸幕府に対するある種警戒心・対抗心のためである。
 
(5) 薩摩・長州が江戸幕府に対するある種警戒心・対抗心を持ち、持ち続けたのは、江戸幕府開府以前の関ヶ原合戦とその後の戦後処理のためである。平たく言えば、関ヶ原合戦に負けた「恨み」である。
 
 薩摩の子弟教育に「チェスト!関ヶ原」の精神がみなぎり、長州の殿様が年始に「倒幕の可否を問う」儀式を連綿と続けてきた(と言う)事が、ついにはあまたの風雲児たちを活躍させ、維新回天の偉業をかなえた、という「理屈」である。いかにも俗っぽいが、専門化細分化した歴史学からは、こういう発想は出て来にくい。
 
 かくして、「風雲児たち」第1巻は関ヶ原合戦前夜で始まり・・・1巻の大半は関ヶ原合戦に終始している。
 
 こんな調子だから、「大阪夏の陣」を見開き2ページ×2で(相当無理矢理)終わらせたところで、300年に及ぶ江戸時代が、簡単に終わるわけがない。「江戸時代編」ともいうべき第1シリーズ20巻をかけて「竜馬、江戸へ」までしか描けないのも道理だ。だが同時に、マンガという媒体の「情報密度の薄さ(*2)」もあって、「風雲児たち」は「江戸時代通史」とならざるを得ない。むろん「通史の軸」がハッキリしていれば、だが。

 その点、「風雲児たち」は「幕末維新に綺羅星のごとく登場した風雲児たちを描く」のが当初からの目的だから、「江戸幕府の弱体化・倒壊への課程」と、その裏面である「薩摩・長州の興隆」が「通史の軸」とハッキリしている。おまけにマンガだから「読みやすい」。
 
  「本職」はギャグマンガらしいみなもと太郎氏だから、登場する歴史上の人物も大半「ギャグ化」されてしまっている(*3)。第一、当人も「歴史マンガ」ではなく、「歴史を舞台とし、史実も盛り込んだ作品」としている。その上連載期間も長いもんだから、その間に歴史学の方が進んで「史実の誤りが訂正される」事もままあって、作者を悩ませるものらしい。それらも含めて「歴史の教科書」ではなく、「歴史絵巻」と考えるべき作品ではあろう。
 
 だが、それでも、フィクションを交え、ギャグ漫画化されようとも、「風雲児たち」には、「通史を語る」もしくは「読者に通史的視点を提供する」資格がある、と、私(ZERO)には思われる。たとえば、杉田玄白等が、「オランダ語なんか一語も読めない」状態から「解体新書」を和訳出版するまでの悪戦苦闘と葛藤ぶりとか、幕府に課された難題・薩摩堤(と、後に呼ばれることになる)構築に挑む薩摩武士の勇姿とか、「キャラクターや駒割はギャグマンガなのに、涙が出てくる」なんて貴重な体験を(私(ZERO)には)味あわせてくれると共に、「通史的に歴史を俯瞰する醍醐味」を味あわせてくれる。
 
 むろん、先述の通り専門化・細分化した現代の歴史学専門家から見れば、「通史的見方」と言うのは「大いに異議ある」処であろう。だが一方で、渡辺昇一氏なんぞは「歴史は、虹である」と唱えている。ここで言う「虹」とは、「遠目からは7色に分かれた美しさが判るが、ごく近くでは「水滴」としか見えない」という意味であり、渡辺昇一氏は歴史を見るに500年以上の長いスパンを提案している(*4)程だから、「極大的通史の提案」とでも言うべきか。ああ、渡辺昇一氏の本職は英文学者であって、歴史学ではないことも、付記しておくべきだろう。
 
 だが、先述の通り、この世の大半は非歴史学者であり、非歴史学者の歴史観に通史的な見方があっても、かまうまい。
 その格好の材料を、みなもと太郎作「風雲児たち」は、提供してくれる。
 
 第1シリーズだけで20巻の大作だが、一読されては如何。

 

<注釈>

 
(*1) かかる「名言」を頂いた「星の旅」さんとか、「アワモリ」さんとか、お元気だろうか。 
 
(*2) 論述・論文という点で、テキストベースの情報密度にマンガが叶うわけがない。論点・焦点を絞れるのも、テキストベースの威力だ。 
 
(*3) 分けても、吉田松陰はちょっとヒドい。確かに、狂人といえるほどの激情家だったようだが。小早川秀秋は、あれで良いや。 
 
(*4) さらには、最近500年のスパンを通じて見えてくることが、「西欧列強=白人による全地球的支配への課程と有色人種の反撃」であること。さらには、その「有色人種の反撃」の先頭・先陣が我ら日本人であり、大日本帝国であったとする。
 相当に、説得力があるな。